ヨハネ 3:16 神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。
ある牧師先生の家に四匹の小犬が生れました。早速見に行きましたがとてもかわいい犬で、一匹ほしいなあと思うくらい。ところが母親犬は四匹を平等に愛し育ててはいないと、その牧師は言われるのです。ある一匹だけをよく面倒をみて、ある一匹には全く無関心なんだそうです。残りの二匹にはまあまあとのこと。どうも理由がありそうです。実は、愛されているのは父親似の犬。嫌われているのは自分に似ている犬なのだそうです。どうしてそうなるのかわかりませんが、愛の執念かもしれません。愛というのは難しいものです。
ヨハネ福音書の中で、最も有名な箇所です。たいてい好きな聖句のトップにこの聖句が上げられます。神様が、独り子であるイエス様を十字架の死に渡してまで、私たちを愛してくださったのです。私たちの罪を赦しあがなうためです。「たち」というより、これを読む人は「私」と置き換えます。こんな私のために、神様がそこまでしてくださったことに感謝するのです。
会話の中でよく聴く言葉があります。「すみません」という言葉です。本来「ありがとう」と言うところで、「すいません」といいます。何も悪いことはしていないのに謝っているように聞こえます。しかし、ある仏教のお坊さんの解釈を思い出しました。「すいません」という言葉は、「私」はこれまで多くの人、出会い、物、大自然のおかげで今日まで生きてくることができた。しかしそれに対して何一つ恩返しができていない。つまり「すみません(申し訳ない)」という気持ちを表した言葉ですと。あなたからの恩になにも返せなくて「すみません」ということです。
ヨハネは「神はその独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」と告げています。神様から私たちが頂いたものを数えることができません。(あまりにも多くて)イエス様の命までも頂いたのです。神様に何を返していけばいいのでしょうか。いや、返すことを神様は望んでおられないと思います。「ありがとう」と感謝して受け取ればいいのです。そして、頂いた恵みを隣人と分かち合い、「あなたも神様から愛された存在ですよ」と伝え、隣人に仕えることが「すみません」の本当の生き方だといえます。
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