フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
山口県萩にある松蔭神社にいったことがあります。吉田松陰がご神体でしょうか。とにかく吉田松陰の魂を沈めるためのものだと理解しています。そこに多くの方がやってきて願いごとをされます。絵馬にはたくさんの言葉が書いてありました。そのほとんどは「学業成就」「大学合格」でしたが。中に「恋愛成就」「長生きできますように」「家内安全」「結婚したい」というのがあり、笑ってしまいました。吉田松陰の人生、哲学、生き様を考えると、もし彼が神様であるなら願うことは違うだろうなあ~と。もちろん皆さんは神様とおもっておられるから何でも聞いてくださると考えているのでしょうが。祈りと願いの内容が違うのだろうと。
パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。しかし、この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。
車で走っていますと、楽しいことがたくさんあります。とくに看板に目をひかれます。柳井市のある海岸線には、「このあたり美人おらず。わき見運転するべからず」と書いてあります。もっともその下には、「美男子は完全にいない」と落書がありました。思わず微笑んでしまいました。いっぽう、六日市に向かう道では、看板にはっとするようなことがいつも書かれています。たとえば先月は、「ありがとうが、いつのまにやらあたりまえ」と書いてありました。なるほど感謝する心の大切さをいまいちど発見する思いでした。それでは今月は何と書かれてあったか。こうです。「子は親の言うことはしないが、親のするようにする」です。
パウロは「感謝をこめて」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いではないかと思います。
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