ルカ 10:36 だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか
あるとき、神学校の礼拝で学生が説教をすることになりました。はじめての説教だったこともあり、徹夜して準備し礼拝に参加しました。ところが説教壇に立ったとたん緊張し、何も話せなくなったのです。沈黙は5分位つづいたとき、ある神学校の教授が説教壇に立ち、代わって説教したそうです。その話をきいて「さすが神学校の先生ですね、よくできましたね」と思いました。ところが先生は「神学校の教授だから当然のことです。いつでも準備はできていますよ」と。
有名な「よきサマリア人のたとえ」です。イエス様が律法の専門家に「何をしたら永遠の生命をいただけるか」という問いかけからはじまる会話の中で言われた言葉です。隣人を愛すること、では「わたしの隣人とは誰ですか」という質問をしたのです。隣人がわかったら愛することもできますと言いたかったのでしょうが、イエス様は「だれが隣人になったか」と違う角度から問われたのです。その中で、サマリア人はいかなる状況においても、傷つき倒れている人の隣人になることができる準備がしてあったことがわかります。
まだ娘たちが幼稚園の頃、家内が教会の会議で留守をすることになりました。いわゆる3日主夫でした。初日は朝早く起きて、娘たちのお弁当作りから始めました。作りながら洗濯、朝御飯の準備。子どもたちを起こしながら、登園の準備。まあ忙しいことといったらありません。それだけではありませんでした。様々な家事が待っていたのです。つくづく家庭を守ることの大変さを感じました。それら全部が実はこれほど神様から祝福されている仕事もないと確信しました。家族が平安のうちに出かけて、また帰ってくる。その拠点を守るのですから。これこそイエスに仕えることなのです。しかし、その中で常に心を準備しておくことの大切さを学びました。
いつでも準備ができている。交わりに人が欠けたときも、その人が帰ってくるまですぐに代わってできる体制。これが目標でもあります。そのためには、まず心の準備をしましょう。共に神様の働きにあずかっている仲間ですから、補い合える心を備えることが、宣教の働きを託されているものの任務の一つです。
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