マタイ 6:29 栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。
花といえば思い出すことがあります。あるとき幼稚園のこどもが教えてくれました。「お花は自分の嫌いな色をつけているのよ。赤いお花は赤が嫌いなの。黄いろのお花は黄いろが嫌い」。話を聞いているうち、どうしてそうなるのかなと考えてしまいました。確かに嫌いなものを前面にだし、「あれもいやだ、これもいやだ」といいながら生きている私たちですが、自己主張するほどでもありません。また、「あれも好き、これも好き」と思えるほど積極的にもなれません。私たちなりの色があるのでしょうか。しかしその子は続けて、「だから神様は嫌いなものがないからみえないの」。その透明さが好きです。
イエス様は山上の説教の中で、「思い悩むな」のテーマのもとに「命」のことを話されます。自分の命のために「何を食べようか」「何を着ようか」と思い悩むなと言われるのです。何をするかが大切ではなく、一番大切な「命」そのものを考えよと言われるのです。その「命」を支えておられるのは神様であり、神様が私の命のための働かれるというのです。そのたとえ話の一つに「野の花」の話をされました。
坂村真民さんの詩に次のようなものがあります。「今を生きて咲き 今を生きて散る花たち 今を忘れて生き 今を忘れて過ごす人間たち ああ 花に恥ずかしい 心痛む日々」。何の解説もいらない詩です。
イエス様は野の花を見せながら「命」について語られました。思い悩むより神様が守っていてくださることを信じなさいと言われるのです。今を生きるということは、神様の守りの中で感謝して生きるということです。求めるものは食べること、着ることではなく、今を生き、今を生きて散るために必要な神様の国と神様の義だと思います。
(立野牧師は26日まで中国に出張しています。音声朝礼はお休みです。申し訳ありません。)