2コリ 6:1 神からいただいた恵みを無駄にしてはいけません。
事務局時代、会館風呂場への給湯配管がいきなり破裂しました。天井から滝のようにお湯が流れ、みるみる床が洪水状態となり救援に呼び出されました。いってみるとあたり一面が雨漏り状態。「バケツはないか」と探しまわっていました。ふと、「大きな洗面器が15個位印刷室にあった」ことを思い出しました。その洗面器が大いに役にたったのです。この洗面器は10年前からあったもので、青年修養会で1度だけ洗足礼拝で使用されたものです。それ以来、1回も使用されず「ほったらかし」にしてあったのです。無駄なものと思っていましたが、そうではなかったのです。せっかくの恵みを無駄にしているのは私なのだと思いました。
パウロは「神の協力者としてあなたがたに勧めます」とのべています。この「神の協力者」という表現は「神と共に働きながら」というのが直訳です。私たちは神の働きの中で、たくさんの恵みをいただいています。しかし感謝が少ないのは、その恵みに気がつかず受けとっていないからでしょう。「無駄」とは、せっかく与えられている恵みを受け取らずにいること。その恵みを「ほったらかし」にしていることです。
神様のなさることは、「いつ」「どこで」「どうなる」のかまったくわかりません。しかもそれは決まって良い方向へと進んでいくのです。徳山教会時代、ハッとさせられることがありました。それは、徳山教会の造りについてです。教会にスロープと障害者用トイレがあることは知っていました。しかし、それを必要とする方がないので、ちょっと無駄なような気持ちがしていたのです。その心の現れでしょうか。スロープの所にはプランターを置いていたのでした。ある時、教会の英語教室に一人の少年が来ることになりました。実はその少年は一人ではありません。お母さんと一緒です。少年は車椅子でしか動けない重度の障害者でした。その少年は英語を勉強したいのだが、どの英語教室にいくにも階段がありいけなかったそうです。ある方が、「ルーテル教会にはスロープがあるわよ。たしか英語教室もあり、アメリカ人の先生がていねいに教えてくれる」と教えてくれたそうです。無駄なものなどないのです。
神様が与えてくださったものはすべて恵みです。何一つ無駄なものはありません。無駄にするのは私たち自身ですし、無駄にするから感謝もないのです。今日1日与えられたものはすべて神様からの恵みである。これを覚えながら過ごしましょう。
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