エフェソ 2:20 そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。
あるビジネス関係の本を読んでいました。すると面白いことに目がとまりました。それは船の話でした。船を作っている部品はすべて単体では海に沈んでしまうが、船として組み立てられると海に浮くというものでした。確かに、スクリューや舵、窓、煙突など船を構成している部品は、ただそれだけでは沈んでしまうのです。船というコンセプトがあって、そこに向かって組み立てられるから海に浮くのです。このことは何を意味しているのだろと思いました。
パウロは、「キリストにおいて一つとなる」ことを教えます。本日の箇所では、教会という交わりについて、建物のイメージからのべています。教会の交わりには「かなめ石」としてのキリストがおられます。この「キリストにおいて」が繰り返されていることによって、キリストとの結び付きが交わりを支え、成長する基になるというのです。すべてはキリストが中心です。私たちの教会も、一人一人が単体であるならば決して宣教できるものではありません。「御言葉を一人でも多くの人に宣べ伝える」という教会の船にならねば沈んでしまうと思います。宣教する船である教会にはイエス・キリストという「かなめ石」があるのです。人をみず、キリストをみることによって教会は一致できると思います。そしてすべてをキリストのみ言葉から見ることができれば一致できるし、大きな力となります。その時に神様の御心による宣教が始まります。
パウロは、キリストがすべての「かなめ石」であるといいます。ここに私たちの基準があります。人間の言動に左右されない、確かなみ心がここにあります。聖書を読むことは、すべての基本であると改めて教えられました。私たちはキリストを中心にして教会の宣教をしていきましょう。一人一人の賜物をもちよってキリストの体となり一つになりましょう。
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