マタイ 23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
ブッダの教えに、「私は知っている」と思っている人は愚か者。「私は知らない」という人は愚か者でない。と言う言葉があります。「私は正しい」という考えに固執したら、他人の意見を聞こうとはしません。それは、自分の振る舞いをなおすことはしないということです。「私は知っている」「私は正しい」と言い張る人には、もはや教えてくれる人や、協力してくれる人は現れません。結局は仕事が出来なくなり、自分を苦しめることになるという教えです。
イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々に対して、あなたがたは「不幸」であると繰り返し告げています。彼らに、「あなたがたは、ものの見えない案内人である」と厳しく非難しておられるのです。彼らが「言うだけで実行しない」からでした。人には重荷を負わせておきながら、自分たちは正しいという態度を非難されたのです。7項目にわたる不幸の宣告と、その理由が述べられています。すべて彼らは何をしているかわかってないことが原因なのです。
中国の昔話「笑林」に次のようなものがあります。ある人が道を歩いているとき、けつまずいてころんだ。やっと起きあがって、いくらもいかないうちに、またころんでしまった。その人はカンカンになってののしった。「ちくしょう。こうと知っていれば、起きあがらないでいたのに」
よく考えてみると、笑えない話かもしれません。「私の人生ぜんぜんいいことない。こんなことならクリスチャンにならなきゃよかった」という人もいます。「こんな結果なら祈らなければよかった」という人もいます。しかしはたしてそうでしょうか。神様は願いを聞いてくださいます。しかし、それは御心にそって聞いてくださるのです。もし、自分勝手な願いごとをいつも聞いて下さった、それこそ傲慢になり自分を神様とするような重大な罪に陥ってしまうでしょう。
イエス様は「ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる」と言われました。自分たちが正しいと思っている律法学者やファリサイ派の人々に「ものの見えない案内人」と言われています。自分の考えばかりに固執していると、大切なことが見えない。大切なものが見えない人たちが教えることは、小さなことに執着するが大きなことは見逃してしまうといわれたのです。
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