ルカ 1:45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。
この時期になると、サンタクロースはいるかということが話題になります。クリスマスの1日で世界中の子供たちにプレゼントを配るとしたら、1人の子供に要する時間は果てしなく瞬間にちかいという計算をした人もいます。つまり瞬間移動しているから人間の目には見えないというのです。私はサンタクロースがいるかいないかを議論してもしょうがないと思っています。目をつぶってサンタクロースを思い浮かべることができれば、それは存在するという教えの方がロマンチックでいいと思います。つまりその存在を信じる者だけに存在するものがあるのです。
イエス様の母マリアは、受胎告知を受けたあと親類のエリサベトを訪問します。神様のお告げによって身重になった2人がそこで出会いました。エリサベトはマリアの訪問を喜び「あなたは祝福された方です」と挨拶をしました。その時マリアのことを「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方」と言いました。マリアの「お言葉どおり、この身になりますように」との言葉を受けてのことでした。
教会から30年も離れておられた信徒の葬儀をさせていただいたことがあります。生前にお会いすることはできませんでした。昭和33年に教会で、目が不自由だった石松量蔵牧師より洗礼を受け、神戸ルーテル聖書学校で学び、実家の仕事をされていました。その後何かの事情で教会から離れ、30年後に「葬儀は教会で」という本人の願いで、再び教会へ帰って来られました。ルーテルアワーで教会を知り、石松牧師から「信じる者、愛する者は幸せである」と説かれ、兄は少し意地悪な質問をされました。「あなたは目が見えないのに幸せなのですか」と。すると石松牧師は「私は目が見えないおかげで外見に惑わされる事がありません。私はお互いの心と心で相手を見る事ができます」と答えられたそうです。その言葉に深い感銘を受け、聖書を学び洗礼を受けられたというのです。葬儀のとき、兄の聖書をみせていただきました。赤線がびっしり引いてあり、兄をとらえた聖書の言葉がわりました。聖書には三つの言葉が記されてありました。「謙遜」「わたしたちは、すべてにまさって、神を恐れ、神を愛し、神に信頼しなければならない。ルター」そして、この一語につきると書かれていたものは「ときに患難は苛苦に見ゆるとも、そはあわれみにより、あたえられしものなり」と。
トマスは「その手足に釘跡をみるまでは決して信じない」といいました。しかし、ほんとは、信じたかったのです。ですから、釘跡を見ずに「わが神、わが主よ」と告白しました。すべては信じるための「信じない」だったのでしょう。 エリサベトはマリアの訪問を受け「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」といいました。神様は必ずみ言葉どおりに実現される方です。それを信じることが私たちに祝福をもたらします。必ず実現するから信じることもできます。信じる心を育てるには裏切らないことだと思います。
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