ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「人生の最後の瞬間に何をしているかを考えたことがありますか」と、ある本で問われました。たぶんいままでの人生を振り返り、一番大切な人のことを祈っているかもしれません。その本にはつづけて、人生の最後に神様が現れて「あなたは生まれ変わって、もう一度、同じ人生を過ごすことになるけれど、それでもいいか」と問われたら何と答えるかともありました。一番幸せな答えは「いろいろ大変なこともありましたが、もう一度この人生で結構です」というものでしょう。すべては神様の御心のままに生きているのですから、この人生でよいのです。
イエス様が十字架に架けられたとき、左右に1本ずつ犯罪人の十字架が立っていました。この2人は人生最後の時をイエス様と一緒に過ごしました。ただ、一人は救われたのですが、もう一人は最後までイエスさまをののしっていました。人生の最後での言葉がののしりだったこの犯罪人は、救いが何か、一緒にいてくださっているイエス様が神様であることを信じることができなかったのです。
ある年の暮れ27日に、一人の兄弟が肺ガンのため召天されました。不思議な導きで教会とのご縁をいただきました。両親と3人姉妹が教会の会員だったそうですが、本人は広島へ来られて30数年キリスト教とは無縁の人生を送られました。しかし、自分の死を直前にされた時、告別式はキリスト教でしたいと洗礼を希望されたのです。23日、お話しをいただいてすぐに病院へかけつけてお話しをさせていただきました。すると苦しい息をされながら、「両親の信仰を受け継ぎたい。洗礼をうけたい」と言われたのです。元気になってご夫婦で教会へいらしてくださいと励まし、緊急のときには洗礼をと告げました。神様の御心によって27日に召天されましたが、臨終の床において洗礼を受けられました。
聖書は十字架上の出来事の中で「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった」と記しています。私たちの働き、人生を考えるとき、終わりから考えることも必要です。神様のもとで復活の命を与えられる私たちは、その救いから振り返って今を見ることが求められています。確実な救いからみて「今」はどうかを考えてみましょう。「もう一度この人生で結構です」と言える信仰を与えられています。その信仰に立って今日を生きていきましょう。
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