ヨハネ14:23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。
ティリヒという神学者が、「教育の神学」の中で現代の学校の問題として次のように述べています。「学校教育の問題は、いままで子供が問うてもいないことに、答えを与えねばならないことである」。この学校とは教会学校であり、宗教教育であると言えます。つまり、神とは何か、キリストとは誰か、愛とは何か、生きるとは、信仰とは、といった問いを子供たちが持つまえに答えを上から下へ与えているということです。問いを持つまえに答えを押しつける。問うことをさせない。答えが答えとして受け取られるには、問いを問うことが必要ではないでしょうか。伝道も同じだと思います。この地に住んでいる人にとって、キリストとは何かという問いをもたせるには、どうしたらよいかということです。
ユダという名前の弟子は、一人ではありません。有名なユダは「イスカリオテ」のユダ。このユダはイエス様を裏切ったユダです。本日のユダは別の人です。そのユダが質問しました。イエス様が弟子たちにはご自分が誰であるか示されるのに、人々には示されないのはなぜかということでした。啓示の問題です。これに対しイエス様は啓示とは一方的なものではく、人々を選択して与えられるものではなく、応答だと言われました。そこで愛の問題を語られています。簡単に言えば、愛というものは往復切符であり、愛されても応答し愛を返さない限り片思いになると言われるのです。つまり、人が神様を信じるという選択も、イエス様との応答の中でこそはっきり与えられるということです。
「あしなが育英募金」の街頭募金がおこなわれていました。交通遺児のための奨学金を目的としたものです。「お願いします」の大きな声。「交通遺児に教育のチャンスを与えてください」との声。街ゆく人の大勢は通り過ぎていきますが、それでも声をだして呼びかけることの大切さを改めて思いました。ところが、その中の一人が次のように叫びました。「貧困を救うのは教育しかありません。どうか教育を受けるチャンスを与えてやってください」と。一瞬「?」となってしまいました。たしかに貧困だけでなく、紛争、人権、HIV問題でもまず教育を受けるチャンスを持つことは大切なことです。この教育を受けるチャンスを持つために、世界中でたくさんの人々が努力し、協力しています。しかし、あしなが募金はそのような意味なのだろうかと。どういう意味でいっているのか、お願いしている本人に聞いてみたいと思いました。でも、そのことを自分で考える機会を与えていただいたのだと思います。最近「何のために」ということをよく考えます。自分はいま「何のために」ここに存在しているのだろう。「何のためにこの働きをしているのだろう」と。イエス様は「何をしてほしいのか」と言われます。この「何」に正確に答える人生を過ごしているか考えています。
イエス様は「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る」と言われました。イエス様を愛するという行為の応答はイエス様の言葉を守るということです。この応答が大切です。私たちはイエス様を愛するから、イエス様の言葉を守る。イエス様の言葉を守ることで信仰が豊かにされていきます。
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