ヤコブ 2:8 もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。
ロシアのことわざに「神は私たちにクルミを与えるが、それを割ってくれない」というものがあります。神様は私たちに必要なものをご存知です。今日必要な物だけでなく、出会い、試練、やることなど。このことわざは、神様はチャンスをたくさん与えてくださるが、それを発見し、受取り、それを利用する自由を私たちに残しておられるということです。やるか、やらないかは私たち次第です。
聖書の言葉に「自分を愛するように、隣人を愛せよ」があります。これを読むとき、「隣人を愛せよ」はわかるのですが、「自分を愛する」ことが、自己愛やわがままにつながらないかな?と考えてしまいます。しかし、自分を本当に愛せない人は、神様の愛もわからず、隣人をどうやって愛していいかもわからないのかもしれません。
「キリストと笑い」という本の中に、ひとつのユーモアがあります。カール・バルト(神学者)は少ししつこい女性から、永遠の生命について尋ねられた。「先生、教えてください。私たちが天国で私たちの愛する人々にみな再開するというのは、本当に確かなものでしょうか」。バルトは、その女性を鋭く見すえながら、おもむろに、しかし力をこめて言った。「確かです。だが、他の人々とも再開します。女性は、愛する人再開できるかと聞きました。バルトは、愛する人と再開するけれど、同時に会いたくないと思っている人たちとも再開しますと答えたのです。この女性は、自分の都合のいい、愛する人たちとだけ再開したかったのです。ところがこの考えは、自分勝手で虫のいい願いです。イエス様の十字架を思うとき、私に都合のよい人だけの十字架ではありません。むしろ、私に都合の悪い人にとっても赦しの十字架なのです。
ヤコブは「隣人を自分のように愛しなさい」を実行しなさいと教えています。これは、神様がどれだけ自分のことを愛してくださっているか、その御心の大きさを知ることです。神様が愛してくださっている私自身を、自分も愛することが必要です。その愛を自分だけのものとせず、隣人へと向けていく。神様はたくさんのいいところを私に与えてくださっています。それを発見してみたいと思います。
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