九州地域教師会修養会が行われました。年に1回の集まりですが、宗教改革500年、改訂新式文についての経過報告、今年の夏に行った中国基督教会研修の旅の報告がありました。そこからいまの宣教をどう考えるかを協議しました。
その中で大江教会の宣教の話題が聞こえてきました。「大きな十字架を礼拝堂に立てたって?」「パイプオルガンを入れる?」「街カフェになった?」「お坊さんが入り浸っている?」「中高生が溢れている?」「新聞ネタがいっぱい?」などなど。牧師の皆さんに是非見に来てくださいと言っておきました。ルーテルの中でも噂になっているということはとても嬉しいことです。大江教会が何か動いているという感じだけでもいいのです。
さて、夜の食事会は街へくりだしました。お店に入りコップが置いてあるコースターに「人生花づくし」が書いてありました。「親の教えは、きくのはな。人の悪口、くちなしで。頭は垂れて、ふじのはな。笑顔あかるく、ひまわりで。愛をはぐくむ、ばらのはな。心清らか、しらゆりで。世は移ろいて、あじさいの。月日は早く、たちばなで。散り際さやか、さくらばな。先は浄土の、はすのはな」。よくできているなと思いました。花の名前や特徴をこんな風にあらわせたらいいです。花も見る人によってかわってきます。しかし、私の心のなかにあるものが花を通して見えてくるのかもしれません。花は私の心の鏡なのだと思います。
インサイド・アウトという言葉があります。内なるものが外に出る。イエス様のみ言葉にもあります。つくづくそうだなと思います。語る言葉、行動、音楽の演奏、しぐさなどすべては内なるものがそとにでてくる。だからこそ自分の内にあるものは何かを考えねばなりません。神様も人も、その人の外にでてきている内なるものを見ているのだと思うようになりました。大江教会の内に「信仰・祈り」があるでしょうか。私たちの教会はどのように見られているか。みなさんも考えてみませんか?