ルカ 14:17 「もう用意ができましたから、おいでください」といわせた。すると、皆、次々に断った。
ある老人施設には「『忙しいからあとで』は禁句」と書いて、施設中に貼ってあるそうです。介護の現場では、お年寄りたちが何かものを頼むときは「切羽詰まって」「遠慮しながら頼む」ことが多いといいます。そんなときに介護する側の都合ではなく、介護される側の立場で最優先に行うことが大事です。「忙しい」を断る理由にすることは、本当に「心を亡くしている」状態なのです。
イエス様が語られた「大宴会のたとえ」です。神様の国での食事する人はなんと幸いでしょうという客の言葉に対する教えです。ある人(マタイでは王様になっている)の大宴会に呼ばれた人々が理由をつけてこなかったという話です。招かれた人々は、はじめは行くつもりで返事をしたのでしょう。ところが行けなくなった理由が「畑を買ったから」「牛を二頭ずつ五頭買ったから」「結婚したばかりだから」というものでした。つまり現代用語にすれば「忙しい」からです。実はこの「忙しい」は万能の言葉で、これでことが許されると思っている人は多いです。しかし、イエス様の話は、神様の国のたとえです。呼んで下さったのは神様で、呼ばれた所は神様の国なのです。何をおいても一番重要な事柄です。
電車の公告に「あなたの忙しさの度合いは?」とありました。よく読んでみますと、現代人はすぐ「忙しい」を連発する。しかしその忙しさには個人差がある。少しのことで「忙しい」という人もあれば、2晩位徹夜で仕事をしないと「忙しい」と言わない人もいる。人はどれくらいを忙しいと思っているかを、職業、性別、年齢によって検証してみようというものでした。面白い企画だったので、思わずその雑誌を買おうかと思いましたが止めました。人がどれくらいを忙しいと言っているかを読んだところで、どうなるものでもなく、そんな時間があればしなければならない仕事を片づけてしまおうと思ったからです。なんか情けないですが。「忙しい」に個人差があるのはとても興味深いことです。その人が生きてきた人生がどんなものであったかによって違ってくるのでしょうから。
イエス様は「『もう用意ができましたから、おいでください』といわせた。すると、皆、次々に断った」と言われています。みな「自分のことで忙しかった」のです。私たちは何を最優先にすべきかではなく、最重要事項は何かを考えねばなりません。それは神様から託されている働きです。隣人を愛することです。そして具体的に動くことだと思います。「忙しい」を理由にしていると、結局何もできないのです。今日はこの「忙しい」という言葉から解放された日にしませんか。
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