1ヨハネ 5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。
アメリカの心理学者ダイアーという人が「成功者となった人の共通性」というものを書いています。その中のひとつに「願望を持った瞬間から頭脳や肉体が自動的に作動する」というものがあります。願いをもった瞬間から人間はそれにむかって知らないうちに一歩踏ふみ出しているというのです。だとすると、何を願うかはとても重要なことです。健康になりたいと願うなら、その瞬間にどうすれば健康になれるかと脳が自動的に動き出すのです。ですから願うことを間違ったときには大変なことになります。お金の亡者とか、自己中心ということは、それを願った結果、自動的に自分が作動した結果なのでしょう。 ですから、何を願うかが一番大切です。
ヨハネは手紙の中で「願う」ことについて教えています。何を願えばよいかといえば「神の御心に適うこと」です。本来私たちが願わねばならないことは、自分が生きているこの社会の中で何が神様の御心であるかを考え、それを願うことだといえます。 イエス様もゲッセマネの園で「御心のままに」と祈られました。祈りとは願うことですが、自分のことばかりではなく、御心を願うことが祈りになります。
「お願いがあるのですが」と、一人の女性が訪ねて来られました。手には数枚の写真と新聞がありました。お願いとは「被爆者が書いた原爆の絵を街角に返す会」のモニュメントを設置していただけないかということでした。とても困ったような雰囲気でしたので事情をお聞きしました。「実はある街角にモニュメントを設置したのですが、地域の方々から撤去してほしいとの要望がでたのです」ということでした。その絵とは原爆の時の鶴見橋周辺の様子を書かれた絵と、書家が書かれたものを陶板にして木彫りの芸術家がモニュメントにしたものでした。撤去の理由をお聞きしたところ「気持ち悪い」「子供たちが気味悪がる」というものでした。耳を少し疑いましたが、いまは原爆の悲劇をそのようにとらえる人たちが増えてきたのだと思いました。いい悪いではなく、このような時代にどのように平和を考えればいいのかと思いました。書家が書いておられる内容は「ヒロシマの顔 夏になると子供たちは裸がすき だけど着物を脱がせてはいけない 真黒こげの 幼児がよみがえってくる」と書かれてありました。いまこのような時代だからこそ神様が教会に置きなさいと言われたのでしょう。
ヨハネは「神様の御心に適うことを願うなら、神様はかならず聞き入れてくださる」と教えています。これは確信してよいことです。しかも、その願いを持った瞬間から、私たちは自動的に神様に導かれて動き始めている。だから、「願ったことはすでにかなえられたと信じない」と聖書は教えているのでしょう。神様のみ心に適うことは何でしょうか。それは神様に祈りで聴くしかありません。
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