ルカ 7:4 長老たちはイエスのもとに来て、熱心に願った。「あの方は、そうしていただくのにふさわしい人です。
大学入試の受験者も、最後の追込みの時期でしょう。最後まで力を出し切っていただきたいと祈っています。自分のときはそんなに必死ではありませんでした。神様頼みと言うのも、神社をたくさんまわってお守りを集めるとか、願掛けなどしませんでした。受験する大学がルーテル教会の大学で、しかも牧師を目指して神学校に行こうとしていましたので、神様のみ心を祈るしかなかったのです。しかし、この祈りの中に「願い」というものがあったのでしょう。神様頼みと言うのは、御心を祈るということと同じだではないかと思います。
さて本日の聖書は、イエス様のもとに、ユダヤ人の長老たちがやってきて願っている場面です。これはとても珍しいことです。しかも、普段なら異邦人として忌み嫌っていたローマの百人隊長のためにイエス様のもとにやってきたのです。聖書には、この百人隊長がユダヤ人を愛して、自ら会堂を建てるなど、ユダヤ人のために働いていたからだと記してあります。この百人隊長の慈悲の行いに心を打たれている長老たちが、願いをきくにふさわしいと推薦しにきたのです。しかも熱心に願ったとあります。しかし、イエス様はその百人隊長の心に信仰があることを見ておられます。長老たちは「慈悲の行い」に目を留めますが、イエス様は「行いの中にある信仰」に目をとめられるのです。
被爆者であったおばあちゃんは「私は幸せものです。みなさんからこんなによくしていただきました。感謝です。」という言葉を遺され神様のもとへ旅だっていかれました。「天に召されるときも、みんなに迷惑をかけないように」の願い通り、眠るようにあっと言う間に天に召されていかれました。その穏やかな表情がいまも印象的です。私たちの人生「私は幸せ者」と最後に言えるということは、本当に感動的なことです。人生の最後の言葉は、天に召される2日前は「いろいろと感謝です」、1日前には「いろいろとありがとう」。そして臨終の床では家族の一人一人の名前をあげて感謝され、とくにお孫さんの優しさ、思いやりに深く感謝されたそうです。いよいよ苦しくなったときは、娘さんにしか聞き取れないくらいの言葉で「ありがとう」と言われたそうです。この言葉は娘さんだけにしか聞き取れないものでした。
百人隊長は、ユダヤ人の長老たちにたいしてイエス様に自分を推薦してほしいと求めています。しかし、百人隊長の行いを知っている長老たちは推薦でなく、むしろ嘆願しています。聖書には「あの方は・・・ふさわしい」と推薦している言葉がでてきますが、その前に長老たちは「熱心に願った」とあります。そこで、イエス様は一緒に出かけられました。イエス様は、長老たちが推薦しながら嘆願している百人隊長のなかに信仰を見られました。神様はどこを見ておられるかで、推薦や嘆願もかわってくるのです。
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