久しぶりに東北の地に立ちました。いまも被災地のまま、東日本大震災から4年が過ぎた「現場」に立つことでした。私にとって被災地に立つということは、宗教者としての原点に帰ることでもあります。あの被災地支援で現場に立たなかったら、宣教の現場には戻るなど考えなかったでしょう。事務局という心地よい組織の中で、自分の宗教者としての実存さえ見失い、それでも自分を慰めながら過ごしていただろうと思います。今回もまた原点に気がつかせていただきました。
仙台では、第3回国連防災世界会議がおこなわれていました。今回は臨床宗教師のフォローアップ研修のスーパーバイザーとしての参加でした。実はこの国連の会議と臨床宗教師の集まりはつながっていました。たくさんの会議やフォーラムがある中、「震災と宗教者の役割」の会議が新聞のトップ記事になっていました。それだけ東日本大震災をとおして宗教者の役割が見直され、新しい何かを生み出したのだと思います。被災者は「命」を医者に託した。では「こころ」は誰に託すのか。医者が「命」ならば坊主・牧師は「こころ」という金田諦応住職(カフェ・デ・モンク主宰)の言葉が心に響きました。こころを託せる宗教者はどこにいるのかとの問いでもあります。
宗教者とは何か。東日本大震災をとおして教えられたことは「現場の苦悩に寄り添う者」であるということです。これなくして宗教者とは言えない。今回その言葉を聞かされたとき、身が震えました。「現場の苦悩に寄り添う」。なんと厳しく、なんと激しいことか。それを経験させていただいたからこそ今の私があるのです。あの震災のとき牧師・教会は現場の苦悩に寄り添えたか。この視点からまた始めたいと思います。
ルターは牧師だけでなく信仰者すべてが祭司であるといいました。宗教者です。大江教会は現場の苦悩に寄り添っているか。寄り添う教会でありたいと祈ります。そのための教会改革であり、カフェであり、パイプオルガンであると思っています。