ヨハネ 9:37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」
カトリックの神父が書かれた黙想の本があり、そのなかに次のような一節があります。「神に愛されようとして、自分自身を変える必要は全くない」自分を変えるというのは、悪いことではありません。しかし、神様のまえでは変える必要はない。これはどういうことでしょうか。それを考えることが黙想の初めなのでしょう。いろいろと思いめぐらせてください。思いめぐらせていくうちに、私たちが勝手に抱いている神様は、なんと小さい神様だったかが分かってきます。私たちは神様を抱くのではなく、神様から抱かれているのです。私たちをそのまま愛してくださる。欠点は多いがそのままを大切にされるのです。こんなことは、神様しかできないことです。この私をそのまま抱いてくださることがおできになるのです。
イエス様は生まれつき目の見えない人を癒されました。このことで問題がおこりました。癒された日が安息日だったからです。イエス様に癒された人はファリサイ派の人たちから尋問をうけることになりました。その尋問は癒された人を苦しめていきます。最終的には罪あるモノとしかみなされず、追いこまれていきました。そんなときにイエス様に再会し、信仰の告白へと導かれました。イエス様は「あなたと話しているのが、その人だ」と、自分を神であると示されたのです。
ドストエフスキーの言葉に「誰かを愛するということは、神が意図したようにその人を見ること」というものがあります。たとえば家族の誰かを愛すると言う時、その人を一人の個人としてみて、自分との違いを認めることだということです。たいていは相手を見る時、「こうあるべきだ」という見方をします。自分の考えに押し込めようとするものです。しかし、それでは相手を人とみているのでは、モノとしてみているにすぎません。人を人とみることが、愛することの基本だといえます。
イエス様は「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」と言われました。イエス様を見るとき、私たちは愛されていることを知ります。イエス様が私たちを人として見ておられることがわかるのです。だからこそ、この男もイエス様を人として見ることが出来ました。お互い人として見ることから愛するということがはじまっていきます。
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