2コリ 12:7 そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。
私達は試練が与えられると、その「できごと(試練)」しかみえなくなります。そこしか見えなくなると、試練ばっかりをみつめてそこから抜け出せなくなるのです。ヘレン・ケラー女史は「苦しみの扉が一つ閉まると、新しい幸せの扉が一つあく」と言う言葉を残されました。苦しみの中にあっても、かならず幸せの扉はあいていると言うのです。苦しみを受け入れた時、神様は必ず幸せの扉をあけてくださるのです。
パウロの生涯は、誇ってもいいものです。現在のキリスト教があるのもパウロの宣教力があったからだと思います。しかし、パウロは思いあがることのないように神様から「とげ」が与えられたと言います。具体的にそれが何かはわかりません。しかし、その「とげ」のゆえにいつも神様と向き合うことができるというのです。試練や苦しみをひとつの「とげ」として、それをマイナスに捉えず、神様との出会いのチャンスと考えているところが信仰だと言えます。この信仰のゆえに、どんなこともあきらめない信仰者パウロが生れたのです。
南極ではときどき「ホワイトアウト」とい現象がおこるそうです。晴れた日、上空に薄い雲がかかっているときに起きる現象です。太陽の光が雲に乱反射し、同時に地面の雪にも乱反射する。するとあたり一面が光そのものになってしまう。その時に「影」がなくなるのです。「影」がなくなると、人間は距離感覚・方向感覚を失います。自分がどこにいるのかわからなくなってしまうのです。この現象で命を落とす人たちもいるそうです。光は必要ですが、光だけでは死の危険さえあるくらい迷ってしまうのです。
神様の前で完全であることは素晴らしいことです。しかし、完全な人間などいません。パウロは「思い上がることのないように」と「とげ」が与えられたと言います。私たちはどこかに「とげ」(痛み・苦しみ)を抱えています。その「とげ」と向かい合うとき、そこに神様が共におられることを知るのです。私たちに与えられた「とげ」は何か、それを赦し共にいてくださる神様に感謝して生きていきたいと願います。
(本日はルーテル学院朝礼のため音声はお休みです)