1コリント 15:58 主に結ばれているならば自分たちの苦労が決して無駄にならないことを、あなたがたは知っているはずです。
ある宗教学者の言葉に「苦労を知らない人は自分のことを先にしたがる」というのがあります。豊かな社会になって、人からしてもらうことが多くなった。あえて「苦労」をすることもない。また苦労することで、人からしていただくことに「感謝」「感動」もなくなったとありました。人から助けられて生かされていることを知らないと、やっぱり自分のことを先にしたがるのです。「自分のことを先に」だと、結局は孤立していくだけです。苦労は買ってでもしなさいと昔は教えられていましたが・・・。
この箇所は「死者の復活」ということについて論じたあとの結論の中にあります。とても難しい箇所で、パウロは、人間を支配してきた罪と死と律法に対して、神様はキリストの死と復活によって勝利を賜ったと述べています。しかし、この問題を理解し伝えるために、パウロの苦労は並大抵のものではなかったようです。ところが「苦労は決して無駄にならない」と励ましています。
全国を飛び回ったり、伝道セミナーを開いたりしていますとよく聞く言葉があります。それは「今の社会の中では何をやっても同じ」「やってもやっても実りがない」「教会は無駄なことばっかりしている」などなど。確かにそうだなと思いますし、無駄と思うことは止めようと思った時もありました。それでも、なんとかやってこられたのは、次のようなマザー・テレサのことばに出会ったからです。「わたしがしてきたことは大海の一滴に過ぎません。けれども、もしそのひとしずくがなかったら、今、海の水は、その分少ないわけです。みなさんご自身や家庭、そして通っている教会についても同じ事がいえます。とにかく一歩一歩進んでいくことです」。マザー・テレサの言葉の重みと、そのユーモアに畏敬の念を覚えました。大海の一滴だけれど、それがなければ海の水はその分少ない。これはなんという素晴らしい言葉だろうと思います。ちっぽけな私の存在も、神様の目からみたら同じではないでしょうか。大海の一滴だけれど、しかし大切な一滴としての私がここにいるのです。神様の目というのはそのような見方をなさるのです。心から感謝したいと思います。
パウロは「主に結ばれているならば」と前置きして、「苦労は決して無駄にならない」といいます。人々の救いをまず考えたパウロの言葉として、それを励ましの言葉として受けとってまいりましょう。
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