神学校の修養会に招かれて「大江教会の宣教」をテーマに講演を依頼されました。この数年の大江教会の宣教について、どうやって変革がなされたかを話してほしいとのことでした。最近では神学校だけでなく、福音派の教会からも講演の依頼を受けています。大江教会の変化は注目を集めているようです。
まだ30代の頃でした。成長している教会を訪ね歩いたことがあります。共通点はすぐに見つかりました。それは清潔であることです。どこも清掃がなされて風通しがよく、玄関からホールが見事に綺麗だということでした。それから教会に行くたびにチェックしていることがあります。それは教会を物置にしていないかです。礼拝堂を物置にしている教会は成長できません。次に説教壇。ここが一番汚いのです。マッチの燃えカスだけでなく過去の週報などたまっている。次にオルガン。鍵盤やその周りが清掃されているか。結構埃かぶった鍵盤が多いのです。つまりは心がそこにないのでしょうね。成長している教会はそのすべてが綺麗でした。ルーテル教会はというと情けないことの方が多かったです。それで大江教会の変革も綺麗に整えることからはじめたのです。
教会は物置ではない。礼拝堂はさらに物置ではありません。信仰が表れる場所です。ここに聖なる空気を感じないならば、どんなプログラムがあっても人は集まりません。集会室もそうです。おそろしいのは慣れです。何も困ってないからこれでいいという思いです。それは自分たちだけがという考えだと思います。宣教する教会、成長する教会はつねに外を向いています。まだ教会にこられてない方の視点で教会を考えておられました。そのような視点を持つことが大江教会の宣教には必要です。
いま大江教会には週日にふらっと礼拝堂に入られる方が増えました。ある方は涙を流して祈っておられます。ここで祈りたいという教会になりつつあります。開かれた聖なる空間が出来上がろうとしています。さて皆さんはこれからどうしますか?