2コリント 7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。
ある幼稚園新聞の9月号のテーマは「あこがれ」でした。子どもたちにとって「あこがれ」を持つとはどんなことか。こんな人になりたいという「あこがれ」をもつことが、子どもたちの心の成長を促していくという事が書いてありました。私がチャプレンをしていた幼稚園の卒園文集には、いつも子どもたちが「何になりたいか」を書いて残してありました。幼稚園の先生、お花やさん、ケーキ屋さん、おまわりさん、サッカー選手などなど。みんな「あこがれ」をもっているのです。その中で印象的なことを書いた子どもがいました。彼は電信柱になりたいと書いていたのです。大笑いしながら理由を聞いてみると、暗い夜に明るいからとのこと。大きく解釈すれば、人の暗闇に光を灯す人にあこがれていたのかもしれません。そのあこがれを持ち続けてほしいと思いました。
パウロによるコリントの信徒への手紙1,2をまとめると、少なくとも5通の手紙をコリントに書き送ったのではないかといわれています。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロが「涙ながらに」としるしている手紙です。その後「和解の手紙」が送られているのをみると、コリントの信徒の人々に悔い改めが起こったのでしょう。「神の御心に適った悲しみ」が悔い改めに導き、そのことによって「あこがれ」がもたらされたと書いています。新約聖書ではここだけにしかない言葉です。
広島経済大学の上田みどり先生のお話しを伺う機会が与えられました。先生から「女武士道」という言葉を教えていただきました。最近の流行語だそうですが、その話の始まりは「茶道」からでした。広島に上田宗古流というお茶の流儀があります。名前だけは知っていましたが、昨年東京に支部を作られたというのです。その支部はキャリアウーマンと呼ばれる女性たちで一杯だそうです。なぜ「茶道」なのか。それは上田宗古流が武士のお茶だからだというのです。現代社会の中でなくなっている「武士道」にひかれる女性が多く、その「凛」とした姿にあこがれているとか。社会にもこの「凛」とした潔さを見いだせないでいるというのです。だから自分から「女武士道」を求めようというわけです。そういわれてみれば自分にも「凛」としたものがかけているかな?と反省しています。
パウロは、神の御心に適った悲しみが、あこがれをもたらしたと言っています。あこがれとは慕うという言葉と同じ意味です。神様の御心に適った悲しみによって悔い改めがおこり、それが神様を慕うあこがれとかえられていく。詩篇には「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」という言葉があります。ここに本当のあこがれをみるように思います。
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