マタイ 18:20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。
最近ネットラジコである曲を聴いています。いままでは、オルガンとかグレゴリアとかでした。ところがひょんなことから「野鳥のさえずり」を聞き始めたのです。なぜかといえば、自然の中にいるような感じがするからです。すがすがしいというのでしょうか。いい気持ちになるのです。また、インドネシアの山奥の教会を思い出すのです。メダンから2日がかりでいった本当のジャングルの中でした。オラウータンやスマトラタイガーがいるという山奥にも礼拝堂がありました。その礼拝堂に入り、椅子に腰掛けて祈っていますと、小鳥のさえずりの奇麗だったこと。「特別な感じ」でした。その至福のひとときを思い出すのです。自然の中にいる、そこは神様の中にいるという特別な感じがしました。
福音書の中で「教会」という言葉はマタイによる福音書のみしかありません。今日の聖書は「兄弟が罪を犯した場合」についての忠告です。3段階の指導が書かれてありますが、基本は「赦す」ということです。教会から離反者がでないように、分裂しないようにとのことでしょう。何事でも「イエス様が集まりの中にいる」ということが大切です。
ある牧師は最初のクリスマス、信徒の方から「先生、あんまり楽しそうでないですね」と言われたそうです。実はその言葉の通りだったそうです。クリスマス礼拝の準備、子どもたちの劇、祝会・お弁当の準備、部屋の掃除で忙しく、本当に疲れていたのです。落ち着いて見渡すと、みんなは楽しいクリスマスの讃美歌を歌い、楽しいスピーチがあり、美味しい料理が並びプレゼント交換がある。しかし自分はどれも楽しんでいないことに気がついたと。先生は「あらゆることに気を配っておりましたが、私はその会に参加していなかった」と振り返っておられました。つまり、クリスマス会の中に自分の存在を置いていなかったというのです。この「中にいる」ということは大切なことです。この組織の中にいながら、傍観者になったり、むやみに批判したり、協力しなかったり、楽しんでなかったり。これは「中にいない」ということです。
イエス様は「わたしもその中にいる」と言われました。中にいることは大切なことです。イエス様が中にいてくださる平安を思います。そこに一致がうまれてくるのです。この場での一致はイエス様を中心にして、みな同じ働きの中にいるということです。
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