フィリピ 2:4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
いろんな人と食事をしていると「自分流」ということを感じます。その人にとってはあたりまえのことでしょうが、とても不思議に見えることがあります。なんでも酢をかけて食べる人。カレーに醤油・ソースをドボドボかける人。とんかつに醤油をかける人。牛丼の肉よりも多く紅ショウガを入れる人・・・。自分にとってはあたりまえでも、人からみれば特殊というのがたくさんあります。このことが人に不快感をあたえなければいいのですが。共に生きていく、働くという場面においては「自分流」も少し見直していくことが大切かもしれません。
パウロは「キリストを模範とせよ」というテーマで、自分のことだけでなく互いに思いを一つにと教えます。「同じ思い」「同じ愛」「心を合わせ」「思いを一つ」にと強調しています。そのために必要なことは「へりくだる」ことです。互いに相手を自分より優れた者と考えなさいと教えるのです。共に生きていくには、自分勝手に生きるのではなく「互いにへりくだる」ことが必要であり、それはキリストが模範として示してくださったことだと言うのです。
子どもたちの遊びも変わってきました。ほとんどの子供がゲーム機を前に座っているといいます。ということで、先生が昔の遊びを教えることになったのだそうでう。「じんとり」「ゴムとび」「たかいおに」「うまとび」「だるまさん」などなど。その中に「こおりおに」といものがありました。鬼にタッチされたらこおりのように固まっていなければならないというものです。しかし、鬼でない子にタッチしてもらったらまた自由になるという遊びです。娘のクラスでもこの「こおりおに」をやってみたのだそうです。はじめは楽しくやっていたのですが、突然ある男の子が泣き出したそうです。先生もわけがわからず、なぜ泣いているのと聞いたのだそうです。すると、その子は「だれも助けにきてくれない」というのです。鬼にタッチされてこおりになっているのだけれど、だれも自分に気がついてくれないというのです。なんだか、複雑な気持ちです。もしかすると、自分のことしか考えられない子供ばっかりかもしれないし、遊びに楽しさがわかってないのかもしれない。神様が日常の生活の中で、何を教えてくださるのかを知りたいものです。
パウロはキリストを模範にといいます。そのキリストは「へりくだった」のだと。この「へりくだり」の心を互いに持つことが、この場における愛を実践することだといえます。
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