ヨハネ 7:52 あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる。
最近の教会会議で「なんでだろう」と思ったことをいくつか。・どのような会議でもだいたい同じ人が意見を言っている。・牧師と信徒の合同会議では牧師ばかり発言している。・最後には「もっと信徒の方々の意見を聞きましょう」と牧師が提案している。・「あれして」「これして」と要望が多い。・「私はこれをします」という積極的な意見はない。・評論家のような分析意見が多い。・第三者的な意見が圧倒的に多く、その中の一人であることに気がつかない。・長い時間会議に費やされ結論はでないことが多い。・「私は聞いてない」「私は初めて聞いた」との発言が多い。・その場での意見が多く、継続性に欠ける。・結局最後は執行部にまかせられる。・文句は多く出るが、それからどうするがない。・一言も発言がない人の方が多い。・同じことが何回も繰り返し話し合われる。などなど。会議が無意味というわけではありません。ただ、「聞く」っていうのは難しいなあ~と思っています。人間の言葉を聞くのがこんなに難しいならば、神様の御言葉を黙って聞くのはもっと難しいのでしょう。
イエス様に敵対するファリサイ派の人々は、イエス様を逮捕するように下役たちを遣いにだしました。群衆がイエス様の業と教えに感動し、イエス様を信じる者が多数でてきたからです。その間に何回もイエス様のことで議論が繰り返されています。そしていつも議論は最初に戻るのです。「メシア(救い主)はガリラヤからでるだろうか」と。ファリサイ派の人々はこの繰り返しに気がつきませんでした。
会議の目的は、創造的な結論を導くことです。しかし、それをひっくり返してしまう参加者をよくみかけます。組織改革をするという会議にでたことがあります。約3時間あまりを議論についやしたあとのことでした。これで結論にしようと司会者がまとめようしたとき、ある参加者が手をあげました。そして次のように発言したのです。「そもそも議論の前提について疑問があるのですが・・・」と。つまり組織改革をしなければならないかが疑問だと。このままじゃだめなのかというのです。これでいままで積み上げてきた議論は振り出しに戻ってしまいました。これは会議ルールの明らかな違反です。採決の段階で議論を振り出しに戻すようなことはしてはならないのです。
「ガリラヤからは預言者はでないことがわかる」。それではイエス様の行われた業、教えはいったい何かということになります。新しいことが始まっていても、古い考えにとらわれていると真実を見失うこともあります。信仰も成長していきます。振り出しに戻らずたえず新しく創造されていく信仰を考えてみたいものです。
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