ヨハネ黙示録2:10 あなたは受けようとしている苦難を決して恐れてはならない
テレビのニュースで、派遣社員の孤独死(餓死)というのを知りました。何が彼を死に導いたのかなと思いながらテレビを眺めていました。ニュースを振り返ると、人生の最大の苦しみは「無気力」にさせられることかなと思いました。孤独になって、誰にも相談できず、家族にも話せず、苦しみの中で餓死という現実。どうやったらそこから抜け出せるのか。一人ぼっちになってしまう。自分から関係を断ってしまう。誰とも関わりを持てなくなって孤独になり、このままでいいかと思い出すのかもしれません。どうせ苦しんで生きるのならそれを避けていけばいいと考えるのでしょうか。考えているうちに悲しくなってしまいなした。
黙示録には7つの教会に宛てた手紙があります。本日はスミルナの教会に宛てた手紙の言葉です。スミルナの教会の現状は、「苦難」「貧しさ」「非難」の中にありました。大きな迫害を受けていたのです。そのような教会の信徒たちにヨハネは「恐れてはいけない」と書き送っています。しかも「忠実であれ」と勧めています。その迫害が十分に耐えられるものであることをのべ、必ず救いがもたらされると励ましているのです。
ラジオからある曲が流れてきました。なにげなく聞いていると、次のような歌詞に「あれっ」と気になりました。「いびつな 力で きみを守りたい ずっと」。スピッツというグループの「君をみつめていた」という歌らしいのです。「いびつな力で」とは何でしょうか。この歌の出だしはとても奇麗な歌詞です。「暖かい場所を探し求めていた、最後の離島で、君をみつめていた・・・」と。なにかのんびりした中で、出会いが起こり、そこから何かが始まっていくというものだろうと想像していました。それはそれでいいのですが、「いびつな力で」というのは理解に苦しみました。しかし、人間の愛は「いびつな力」ものかもしれません。ところが、十字架というのも本来は「いびつな力」かもしれないと言えます。本来はあってはならないことです。それをあえて、私たちの罪の赦しのために神様の力が働いたと考えられます。
黙示録では「苦しみを恐れてはならない」とあります。そこに続くのが「死に至るまで忠実であれ」とあります。苦しみは避けられない。ならば苦しみを恐れず、死に至るまで苦しみに対しても真っ向から向かい合わねばならないと思います。イエス様は、避けられない十字架の苦しみの前に、死に至るまで忠実であったと書かれてあります。最後まで神様に従順だったイエス様がそこにおられます。神様にあって苦しみ受けとめたとき、新しい命の冠が与えられると聖書はのべています。苦しみは避けられない。ならば苦しみを受け取り、それを神様にゆだねる信仰の力を求めたいと思います。
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