ルカ 7:8 わたしも権威の下に置かれている者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。
「あなたは誰ですか」と聞かれたとき、私たちは名前を答えます。しかし、「それでは、あなたは何者か」と聞かれたら。また「どんな人ですか」「あなた自身を説明してください」と聞かれたら何とこたえるでしょうか。つきつめて聞かれれば、自分のことが自分ではわからなくなってきます。本当の自分とはいったい何だろうかと考える時があります。
本日の聖書で百人隊長は「ひと言おっしゃってください」といいました。この言葉の背景には、イエス様の御言葉の力を信じている信仰があります。人間の私を見つめたら何もできないけれど、あなたの御言葉には人を癒す力がありますと信仰の告白をしているのです。イエス様もまた、彼の信仰を認めておられます。それは本当の権威は神様の御言葉にあることを彼が知っていたからでした。私たちは自分を見つめるのは苦手です。しかし、勇気をだして自分を知ったとき、神様の御言葉が命として与えられます。イエス様の御言葉には力があります。イエス様の御言葉が実現しないはずはない。それは神様の言葉だからです。百人隊長は神様の前に自分は何者であるかを知っていたのです。そのうえで、神様の御言葉にすべてゆだねたのです。
「広島自由人倶楽部」の例会で、東広島在住の陶芸家ご夫妻の話しを聞く機会が与えられました。その話しの中で一番驚いたのは「最近では土にDNAがあって、それが人間につながっているという学説もある。キリスト教では神様が人間を土から創造されたといわれるが、キリスト教が正しいかもしれません」という内容でした。陶芸は「1焼き、2土、3細工」だと言われました。土に触れることで「いやし」が行われているのではと言われました。もう一つ印象に残った話は、「作品にはその人の人生がそのまま出てくる。自分がさらけだされる。自分を深めていかないと、陶芸の作品も深まっていかないのです」という言葉でした。私たちが神さまの創造されたものであれば、その人生とともに深まる存在だと言えます。神さまの御心に生きる人生は、ますます深まりその人自身が神さまの証しとなっていくのでしょう。
私たちは、自分を知ることが苦手です。むしろ本当の自分を知っているので、そのことを考えたくないのかもしれません。しかし、自分は何かを知ることが、神様を知ることなのです。自分を見つめ、自分の愚かさに気が付いたとき、神様の存在に出会うといえます。なぜなら、どうしようもない存在としての私がここにいるからです。
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