フィリピ 4:6 何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。
フランシスコ・ザビエルの言葉に「神もイエスも知らない人は、いったい何をしっているのだろう」というものがあります。自分が何を知っているかを考えるとき、本当に知らねばならないことを知っているのかと問いたくなります。たくさんの本を読んで知識があっても、その人が本当に知らねばならないのは、他にあるかもしれません。生命の神秘を探求するために顕微鏡をのぞいても、そこに神を発見できないならば真実を知っていることにはなりません。どんなに多くの知識があってどんな難問に応えることができても、イエス様の何を知っているでしょうか。それに答えられないとすれば、真実を知っていることにはなりません。だとすれば「何」をという問いは私たちにとって永遠の問かもしれません。
パウロはフィリピの信徒を励まして祈りと願いを教えています。この言葉の前に「主はすぐ近くにおられます」と告げます。イエス様がすぐ近くにおられるのだ。だから心配せず、思い煩わず、近くにおられるイエス様に語りかけることを教えるのです。ただ、「何事につけ」の「何」を神様に祈り、願い、打ち明けるかはその人の信仰によることであり、その人がそのまま現れるところです。私たちが「何」を知り、それをどう求めているか。いつも考えています。
広島教会のとき、一人の姉が神様のもとへ帰天されました。まだ47歳という若さでした。その人生はまさに「太く短く」と表現するにふさわしいものでした。ひたすら仕事に走り続けられた生涯でした。家族の皆さんも誇りに思うと言われたほどに、休む間もなく一生懸命に生きてこられたのだと言えます。姉の受洗は、神様の導きとしか言えないものでした。お母さまと娘さんの洗礼日の前日、「私も洗礼を受けたい」と言われました。教会としては「喜んで」お受けしました。親子三代で同じ主の道を歩む決心をされたのです。しかし、受洗してまもなく脳腫瘍がみつかり緊急手術を受けられました。お医者さんは「このまま帰れないか、植物人間になるか、よくて車椅子生活になります」と宣言されました。手術まで何人かの方々と祈り、聖水を注いでお祈りしました。すると、奇跡的に手術は無事に終わったのでした。それから1年、身辺の整理をされ、最後に教会に納骨されてあるお父さまのお写真をきちんとしたものにしたいと、訪ねてきてくださいました。そのとき「牧師先生、私の死はもうすぐです。でも、死んだらどこへいくかわかっています。神様のもとへ行くのだから安心しています」と言われたのが5月でした。最後まで気がかりだったのは、7月にあるお父さまの召天記念祭でした。昏睡状態になる前の日まで「ルーテルに行く、教会へ行く」と何度も言われたそうです。最後の安心の場所がどこか知っておられたのだと思います。
パウロは「何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい」といいます。まず感謝があり、それから神様と対話するのです。あれがほしい、これをしてほしいと自分のことばかりが祈りと願いではなく、神様の御心を聞くことが祈りと願いです。神様に打ち明けたことに応えてくださるみ言葉を聞くこと。人生の中で祈りと願いは「何か」を考えて過ごしましょう。「何」がわかるり、その「何」の中心を探していきたいと思います。
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