マルコ 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
日本人に何かをさせるには一言いえばいいそうです。それは「みんなやってますよ」と言う言葉だといいます。私たち日本人は「みんな」という言葉をよく使います。「みんなやってる」「みんなもってる」「みんな嫌いです」。しかし大抵この「みんな」は2,3人のことです。それでも全体のことにしてしまいます。一人では自信がないのか、また一人ではいたくないさみしがり屋なのか。「みんな」という中に何か問題がありそうな気がします。
イエス様は逮捕される前に、「あなたがたはみなわたしにつまずく」と弟子たちの離反を予告されています。弟子たちもみんなと同じで、自分のもとから散っていくと言われました。ペトロは「わたしはつまずきません」と言います。イエス様はそのペトロに「今夜、鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないという」と告げられました。ペトロは、わたしはみんなと違うと言いたかったのでしょう。しかし、結局みんなと同じになってしまいました。「みんな」の力に押し流されない「わたし」とは何かと思います。
集団になると・・最近このことを考えさせられます。小さな子どもまでも「みんなが、みんなが」といいます。一人一人とは話しができるのに、集団になるとまったく関係が作れない学生もいます。みんなに注目されたいのか、一人ではできないけれど、集団になってしまうと派手なことをしてしまう。個と集団の違いは、いったい何でしょうか。集団になるとホントの自分ではなくなってしまうことの危険性を感じながらの集団活動をしていました。聖書研究会は「出エジプト記」を学びました。エジプトの苦役から解放するために、神様はその苦しみを見、そして聞き、知ったとあります。そして、モーセをリーダーとして「集団」で約束の地への大移動を慣行するのです。あくまでも「集団」行動でした。しかし、この集団がモーセを悩ませるのです。神様はこの集団をひとまとめにして見ておられるのか?どうもそれだけではないのです。集団の中の個の存在を大切にしておられる。結局「集団の中の個であるあなたは、私を信じるか」と問われているみたいです。
ペトロも「みんながつまずいても、わたしは・・・」と言いました。しかし「みんな」とおなじようにつまずき、イエス様をみ捨ててしまったのです。たとえ「みんなとは違う」といっていても、人間は流されていくのです。イエス様はすべてを知って、ペテロをみつめておられました。人は神様の前にたった一人で立たねばならないときがきます。そのとき「みんな」は通用しないのです。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>