新学期が始まりました。先月までの卒業お祝いムードもどこかへいってしまいました。春になって気持ちはみな新しい方へ向かっています。
先週のことでした。真新しいスーツを着た女性が教会の玄関にやってきました。きっと何かのセールスだろうと思いました。しかし、なにか感じが違ったのです。真新しいスーツでしたのでどこかの会社の新入社員でしょう。外回りの初めての営業なのでしょうか。彼女に「ここは教会ですが、何か御用ですか」と聞こうとした時でした。「すみません。教会で祈らせていただきますか」と言われました。かなり悲壮感が漂った感じがしました。初めての営業でうまくいかなかったのか、仕事という現実社会にぶちあたっているのか。とにかく泣きそうでした。「どうぞ、教会は祈りの場所ですから」と礼拝堂に案内させていただきました。その後はわかりません。そっとしておきました。きっと心を落ち着かせて新しい営業に出て行かれたことと思います。
牧師として「教会で祈らせてください」という言葉が、とても嬉しいものでした。彼女がどこでキリスト教と出会ったかわかりません。ルーテルの卒業生かもしれません。なにか苦しいとき、つらいとき、イエス様を思い出して祈ることができる。そのような居場所をもっておられる。それだけで十分なような気がします。これからも何かあったら教会に飛び込んで祈られることでしょう。それでいいのです。
教会で祈る。このことを私たちは忘れていないでしょうか。この新入社員の方の後ろ姿をみながら思いました。教会に来るということは、イエス様に出会うことです。イエス様と出会うことは祈ることです。その祈りの場所を、時間を持っているでしょうか。聖なる空間として整えられたこの礼拝堂で祈る時間がありますか。その時間を大切にされていますか。あなたに語りかけるイエス様のみ言葉をきいていますか。