ユダ 1:9 大天使ミカエルは、モーセの遺体のことで悪魔と言い争ったとき、あえてののしって相手を裁こうとはせず、「主がお前を懲らしめてくださるように」と言いました。
ある宗教団体が「この熊本地震は神様の裁きである」と言いふらしていると聞きました。またか~と残念で仕方ありません。またキリスト教の中でも「いまこそ伝道のチャンス」と叫んでいる教会もあります。その声を聞く度に、今はそんなことを言っている時ではなく、私の前におられる被災者の方々にどのように寄り添うかだと言えます。そのような働きをとおして、自分を生かしてくださっているイエス様を知っていただくことです。み言葉に立って仕えることしかないのです。何かイエス様のみ言葉を間違って受け取っておられると思います。
ユダの手紙は、イエス様の弟であるユダが書いたという体裁をとっている手紙です。しかし本来はそうではなく、手紙の権威づけのために名前が用いられています。内容は異なる信仰理解を教える「論敵」を退けること。読者がその教えに影響されないことを目的としています。間違った教えに対して、強く警告しているのです。
「被災地支援活動におけるキリスト教の傲慢」という声を聞きました。結局私たちがキリスト教メディアを通して聞くのは「今回もクリスチャンの支援活動は素晴らしかった」と言うことです。「祈りとみ言葉に立った活動ができた」という報告があいます。本当にそうなんでしょうか。人の痛み苦しみに寄り添った時に「素晴らしい活動だった」で終わらせていいのかなと思うのです。それは自己満億ではないのか。本当にやらねばならないことができたか。素晴らしい活動なんていらない。寄り添うことが大切じゃないのかと。確かにクリスチャンの方々のご奉仕には心から感動します。だからこそ「活動は素晴らしかった」で終わるのでなく、何もできませんでしたという謙虚さがほしいのです。神様の前に私たちは何もできない存在だからです。
神様はすべてをご存知です。いま起こっていることも、何が必要かも。だから神様に信頼して、今やるべきことを淡々としていくことです。大天使ミカエルは「あえてののしって相手も裁こうとせず」と書かれています。そのことは神様にお任せされたのでしょう。やるべきことを何か、足元をしっかり見据えて災害救援に当たりたいと願っています。
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