マタイ 12:12 安息日に善いことをするのは許されている
ある宗教学者が「遅刻のすすめ」を書いています。わざと毎日遅刻しなさいというものではありません。会社・学校では遅刻は絶対ゆるされません。1分の遅刻であっても、校門の扉に挟まれて死亡事故がおこるような現代です。子どもたちは遅刻しまいとして必死で、朝ごはんも食べないで脇目もふらずに学校へいくのです。その学者がいうには、「もし、いま登校途中で困っている人に出会ったら子どもたちはどうするだろう。きっと見捨てていってしまう。なぜなら、遅刻は悪いことだから。私は自分の子どもには、遅刻はいいことだ。困っている人を見捨てるくらいなら、どうどうと遅刻せよと言っている」と書いていました。そういう遅刻ならばゆるせるでしょう。何を大切にしているかという問題です。
イエス様はある安息日に片手の萎えた人を癒されます。これはユダヤ人からすると律法違反です。安息日は何もしてはならないと理解し厳格に守っていたのです。しかし、イエス様は律法を守ることと、律法を生きることの違いをしめされました。律法は何のためにあるのか、神様との関係においてどう生きるかを問われます。私たちは間違ったことをしたくないために「ねばならない」ということにこだわります。ねばならないと決めた方が楽かもしれません。それをしていればいいのです。しかし、イエス様の教えは信仰によって自分で考えなさいということが多いようです。
世の中「こうでなければならない」が多いように思えます。先日も結婚式の相談の電話がありました。相談といっても、バージンロードを誰と歩くかという相談です。電話は新婦のお母さんからで、「娘は私と入場したいと言ってますが、これはやはり父親でなければならないのでしょう。しかし、父親は10年前に他界しておりますので、やっぱり男の伯父でなければならないと思いまして」という相談です。答えは簡単。「そうでなければならないことはありません」です。しかし、お母さんは「やっぱり男でなければならないのが常識ですよね」と言われるのです。それを聞きながら「ねばならない」って人を縛るものだと考えていました。「娘さんはお母さんと歩きたいのではないですか。そこには娘さんの感謝の気持ちや、願いや、愛が含まれていると思いますよ。その気持ちを大切にしてあげてください。娘さんはお母さんと共に歩きたいのですよ」と答えました。
イエス様は「安息日に善いことをするのは許されている」と言われました。私たちはどうでしょうか。一度「ねばならない」と思ったらそれしかみえません。なにが神様と私の関係に善いことか、考える余裕をもっと持ちたいと思います。遅刻をするかしないかという問題ではなく、神様との関係において何が正しいかを判断し、信仰をもって決断していくことを求められています。
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