東日本震災救援ではボランティアセンターの受付をしました。たくさんの方々が受付に来ますが、対応に苦慮したのは宗教関係のひとたちでした。とくにキリスト教関係の人たちは自分勝手な思いを押し付ける団体がありました。牧師という立場だったからそう思ったのかもしれません。ただ、受付に来る団体は私がキリスト教の牧師と知らないのです。自分たちは神様の業をしている。聖書には奉仕がどんなものであるか書いてある。あなたに教えてあげましょうという態度でした。あたかも神様の代弁者のようでした。これにはとてもついていけませんでした。
熊本地震支援活動で宗教団体の姿がみえなくなったとお聞きしました。たぶん支援活動の区切りの半年を見据えて活動が終わってきたのでしょう。緊急支援から始まり、避難所支援、がれきの撤去などの活動が落ち着いてきたのかもしれません。ただある人が次のように言われました。「残念ですよね。宗教の出番はこれからなのに、帰っていくのですよね」と。確かにそうだなと思います。宗教のもつ心のケア、寄り添い、傾聴はこれからです。そこには目が向かずに活動を終了したり、違う活動へと流れたり。きっと見ているところが違うのかもしれません。ただわかることは、緊急支援の中でどのような関係をもってきたかです。その関係がしっかりできていれば、次の支援へと勧めるのです。しかしそれが出来ずに、目の前の支援に飛びつき、その活動に丸投げする。それが宗教者のやる支援とは思われません。神様から頂いている、私たちの賜物を忘れてはいけないのです。そこには神様から与えられた使命があります。いま被災地にとことん身を置き、踏ん張り、寄り添いが求められているように思います。
パウロは「わたしたちは神のために力を合わせて働く」と教えています。その目的は「神と共に働く」です。その働きに終了はないと思います。