2コリ 12:7 そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。
私達は試練が与えられると、その「できごと(試練)」しかみえなくなります。そこしか見えなくなると、試練ばっかりをみつめてそこから抜け出せなくなるのです。ヘレン・ケラー女史は「苦しみの扉が一つ閉まると、新しい幸せの扉が一つあく」と言う言葉を残されました。苦しみの中にあっても、かならず幸せの扉はあいていると言うのです。苦しみを受け入れた時、神様は必ず幸せの扉をあけてくださるのです。
パウロの生涯は、誇ってもいいものです。現在のキリスト教があるのもパウロの宣教力があったからだと思います。しかし、パウロは思いあがることのないように神様から「とげ」が与えられたと言います。具体的にそれが何かはわかりません。しかし、その「とげ」のゆえにいつも神様と向き合うことができるというのです。試練や苦しみをひとつの「とげ」として、それをマイナスに捉えず、神様との出会いのチャンスと考えているところが信仰だと言えます。この信仰のゆえに、どんなこともあきらめない信仰者パウロが生れたのです。
パウロ使徒言行の旅をしたことがあります。そこで、パウロをそこまで宣教へ駆り立てたものは何だったのかと考えていました。イエス様との出会いによって回心したパウロ、しかしそれだけではなかったことでしょう。何回も彼の宣教旅行、回心などを読んでいまして、ふとこれかもしれないと思えることにぶつかりました。それは、聖ステファノの殉教です。パウロ(当時はサウロ)は、ステファノの殺害に賛成しています。しかし、自らは石を投げず、彼を取り囲んで石を投げている者たちの洋服の番をしていたと聖書には書かれています。パウロの原点はここかもしれないと、ピンと思い当たったのです。殺害に賛成しながらも自らはあたかも傍観者のごとくに振る舞ってしまったパウロ。そのことが彼の心の痛みになっていたのではないかなと思います。最後まで自分に石を投げつける者たちのことを祈って召されたステファノ。その輝きの中で、主イエスにパウロはであったのではないかなと思います。そのことの悔い改めが、彼を救ったのでしょう。
神様の前で完全であることは素晴らしいことです。しかし、完全な人間などいません。パウロは「思い上がることのないように」と「とげ」が与えられたと言います。私たちはどこかに「とげ」(痛み・苦しみ)を抱えています。その「とげ」と向かい合うとき、そこに神様が共におられることを知るのです。私たちに与えられた「とげ」は何か、それを赦し共にいてくださる神様に感謝して生きていきたいと願います。
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