ルカ 4:39 イエスが枕もとに立って熱を叱りつけられると、熱は去り、彼女はすぐに起き上がって一同をもてなした。
ニュースで、「両親による幼児虐待で1歳児が死亡」というのがありました。このようなニュースを聞くたび、心が痛いものです。子どもたちは虐待する親を信頼しているはず。どんな思いでその親からの虐待を受けてきたのだろう。しかし、そのニュースにはもう一つ思うことがありました。虐待の事実があるという医者の報告に、児童相談所は会議をして「明日抜き打ちで訪問しよう」と決めたというのです。じつはその夜に子どもは虐待をうけて亡くなっています。なぜ「今日でなく、明日だったのか」。なぜ「すぐに」ができなかったのだろうと思いました。
イエス様の公生涯は、「み言葉を告げ」「悪霊を追い出し」「病気を癒す」ことから始まりました。カファルナウムと言う町では、シモンのしゅうとめを癒しておられます。このシモンは弟子のペトロで、イエス様から召される前の出来事でした。今朝は「すぐに」ということ考えました。癒されて「すぐに」人々に仕えた彼女の生き方、あり方が、いまの私たちに問われていると思ったからです。イエス様に愛をうけ、癒されたものは「すぐに」仕えるものになるのです。
依頼を受けて、外部の結婚式奉仕に行っときのことです。場所が変わればハプニングがあるもので、式が始まって結婚指輪が聖卓にないことに気がつきました。すぐに信徒のかたに合図を送り、探していただきました。そうこうしているうちに、説教壇にメモが届けられました。そこには「指輪はまだ披露宴会場にあります。すぐに来ます。少し説教をのばしてください」と書かれてありました。突然のことなので、いつもは十分で終わる説教を二十分かけてゆっくり話しました。もう冷や汗がでました。しかし、自分が話したものをその場で確認しながら、自分でも聞くという作業に恵まれました。そこで、聞いた自分が語る御言葉は「人生にはいろいろなことがあります。苦しいこと、悲しいことにぶつかります。突然起こってくる災難もあります。しかし、神様はきっと導いてくださり、それを乗り越える力を与えてくださるのです。それを信じてください」でした。そう語り終えたときすぐに指輪が届きました。
イエス様に癒されたシモンのしゅうとめは、その後「すぐに」「もてなした」とあります。「すぐに」人々に仕えることができたのです。「愛は間に合うこと」といった方がおられます。愛や奉仕の行いも「間に合わなければ」なりません。神様からの愛は「すぐに」私たちに届けられます。いつでも「間に合う」のです。私たちも「間に合う」ことを考えながら、「すぐに」を考えてすごしましょう。
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