ヨハネ 4:14 わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。
イスラエルで砂漠を旅していた時のことです。ガイドの方がよく「つねに水を飲んでください」と何度も言っておられました。砂漠ですから喉は渇きます。しかしバス移動のためトイレの問題があり、とくにお年寄りは水を飲まないのです。するとやっぱり脱水症状になり、大変な状態になります。実は砂漠では自分が意識してないうちに体から水分が出て行ってしまうといいます。干物状態になるのです。ですからたえず水を補給しておかねば脱水状態になるのです。意識しない渇きというのがあることにはじめて気がつかされました。
イエス様は、サマリアの町にあるヤコブの井戸の前で一人の女性と出会います。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないのですが、イエス様の方からこの女性に声をかけられたのです。しかも「水を飲ませてください」と。この言葉は、たんにイエス様の喉が渇いていたというだけでなく、この女性にとって「魂の渇き」に気がつくようにとの言葉でした。それはイエス様が言われた「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」というみ言葉につながっていくのです。この女性にとって渇きをそのままにしておくことは、死へとるながることだったのです。
ある夏の日のことでした。友達に誘われて海釣りにでかけました。古い小舟を買ったとのことで、瀬戸内海の穏やかな海にでかけたのです。ところが途中でスクリューが故障し、難破船になったのです。他の船がそばにきたら助けてもらおうとか、はじめはよかったのですが「水」がないことに気がつきました。日差しはカンカン照り。船は通らず。喉は渇く。それから数時間が過ぎました。極限ちかくになってくると「渇きから死」を思い浮かべるようになったのです。人は渇きを実感したときに死を思うのです。たまたま、小舟が通りかかって助けてくださいましたが、陸にあがって、それはもうガブガブと「これでもか、これでもか」と水を飲みました。
イエス様は「わたしが与える水を飲む者は決して渇かない」と言われました。渇きは喉だけではありません。魂の渇きがあります。すべての渇きは死へとつながっていくのです。イエス様が与えてくださる「生きた水」は永遠につきることがありません。渇きを知った時にそれを潤す水はイエス様しか持っておられないのです。自分の魂の渇きに気づいたとき、そこにはイエス様が生きた水をもって迎えてくださっていることに感謝したいものです。
違いは十字架の後もこのまま聖書にしるされています。信仰の根っこにあるものを今日は問いつつ過ごしてまいりましょう。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>