2コリント 7:11 神の御心に適ったこの悲しみが、あなたがたにどれほどの熱心、弁明、憤り、恐れ、あこがれ、熱意、懲らしめをもたらしたことでしょう。
ある幼稚園新聞の9月号のテーマは「あこがれ」でした。子どもたちにとって「あこがれ」を持つとはどんなことか。こんな人になりたいという「あこがれ」をもつことが、子どもたちの心の成長を促していくという事が書いてありました。私がチャプレンをしていた幼稚園の卒園文集には、いつも子どもたちが「何になりたいか」を書いて残してありました。幼稚園の先生、お花やさん、ケーキ屋さん、おまわりさん、サッカー選手などなど。みんな「あこがれ」をもっているのです。その中で印象的なことを書いた子どもがいました。彼は電信柱になりたいと書いていたのです。大笑いしながら理由を聞いてみると、暗い夜に明るいからとのこと。大きく解釈すれば、人の暗闇に光を灯す人にあこがれていたのかもしれません。そのあこがれを持ち続けてほしいと思いました。
パウロによるコリントの信徒への手紙1,2をまとめると、少なくとも5通の手紙をコリントに書き送ったのではないかといわれています。その中に「涙の手紙」というものがあります。パウロが「涙ながらに」としるしている手紙です。その後「和解の手紙」が送られているのをみると、コリントの信徒の人々に悔い改めが起こったのでしょう。「神の御心に適った悲しみ」が悔い改めに導き、そのことによって「あこがれ」がもたらされたと書いています。新約聖書ではここだけにしかない言葉です。
現代の子供たちに「いま、一番ほしいものは何か?」という質問をすると、どんな答えが返ってくるのでしょうか。一番多い答えは「お金」だそうです。ほかのどんなものより、お金にあこがれ、お金を手に入れたがっていると、ある本にかいてありました。土地とか一戸建ての家とかいう答えも多いそうです。あまりにも現実すぎていやになってしまいます。それでは自分に問うてみます。「一番ほしいものは?」。とっさに答えを思いつきませんでした。たしかにほしい物はたくさんありますが、一番といわれると答えようがありません。しかし、お金と土地ではないことだけはわかります。それでもこれだということができないくらい「幸せ」なのかもしれません。
神様は私たちが生きていくうえで、必要なものはすでに与えてくださっています。そのことに気がつかないで「あれもほしい。これもほしい」と願っている自分がいることもわかります。それがほんとうに必要なものであるか?と言われれば案外そうでないものが多いものです。だとすれば、いま神様から与えられている恵みを受け取り、感謝し、それを分かち合っていくことのほうが幸せなのです。「いま、一番ほしいもの」。それは神様の愛に気がつく信仰。そして感謝できる自分。そんなことにあこがれを持っています。
パウロは、神の御心に適った悲しみが、あこがれをもたらしたと言っています。あこがれとは慕うという言葉と同じ意味です。神様の御心に適った悲しみによって悔い改めがおこり、それが神様を慕うあこがれとかえられていく。詩篇には「神よ、しかが谷川を慕いあえぐように、わが魂もあなたを慕いあえぐ」という言葉があります。ここに本当のあこがれをみるように思います。
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