フィリピ 2:4 めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
教会には毎日のように電話がかかってきます。ところが最近、ある傾向に気が付きました。それは一方的に話す人が多くなったということです。会話にならないのです。自分の言いたい事だけを話して、電話を切ってしまうのです。なんだか不思議なかんじがします。まあ電話は用件を話すので会話するものではないのですが。しかし、その会話の中でお互いに理解しあってはじめて用件が達成できるのではと思います。なんだかへんな感じがしてなりません。
パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。めいめい自分のことばかりではなくということは、まず相手を認識することから始まります。相手をどのような立場におくか、それ次第で関係は変わってくるように思います。
神様に対して「ちょっと不信」ということを、結構やっているなと可笑しくなることがあります。先日もある牧師から、「最近、朝起きるときに体がだるくてきつい。だから朝起きてすぐ栄養剤を飲む」と聞きました。それからどうするのと聞いたところ、「それから、きちんとお祈りするよ」と。その話をききながら、「どうしてお祈りしてから、栄養剤を飲まないの?それは神様にたいする『ちょっと不信』じゃない」と大笑いしたのです。自分を振り返ってみました。風邪をひいたとする。きっとまず風邪薬を服用するだろうな。そして病院へいって、最後にベッドの中で祈るだろうと思います。まず神様に祈ってから、風邪薬を服用してなかったことに気がつきました。神様よりもまず風邪薬により頼むことは、神様を第一とする信仰に対してやっぱり「ちょっと不信」ですよね。まず神様に祈る。そして風邪薬を服用し、病院へ行くべきなのだと思います。神様から私たちをみたとき、このような「ちょっと不信」の多さに笑っておられるかなと思います。まず自分ではなく、神様を一番とするとき、すべてのものは祝福して与えられる。しかし、この「まず神様から」がいちばん難しいですよね。だとすると他人のことを考えなさいはもっと難しいかもしれません。
パウロは「他人のことにも注意を払いなさい」と言います。そして見本はイエス・キリストだと言っています。いつもイエス様だったらどうされるか考えてみようということです。まず人からだとおもいます。
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