ヨハネ 16:24 願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる
「願う」とは何でしょうか。子どもたちはいつも「あれ買ってくれ、これ買ってくれ」といいます。願いとはそのようなことでしょうか。どうも違うような気がします。それはおねだりというもので願いではないのです。それでは、願いとおねだりの違いは何でしょうか。それぞれに言換えてみればわかるかもしれません。おねだりは「わがまま」であり、願いは「祈り」ではないかなと思うのです。
イエス様の「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」との言葉で、弟子たちはまた愚かな論争を始めます。しかし、私たちもそこにいたら、もっと愚かな論争をしていたかもしれません。十字架と復活の出来事を経験してはじめてわかることがあります。復活の出来事の中での喜びで満たされること。それを願いなさいといわれています。
大黒摩季という人のCD「POWER OF DREAM」の中に次のような歌詞を見つけました。
道のない道を行けば いろんなことで迷う
かたちのない愛を信じれば かたちが欲しくなる
どうして あれもこれも 欲しくなるのだろう
何も望まないあなたは とても奇麗だから
風になれ この願い 夢を追いかけて
心のむくままに 溢れる思いのまま
この歌詞を読みながら、なぜか放浪の俳人・山頭火を思い出してしまいました。風になって自由に飛び回るのは願いですが、彼の日記を読むとその苦しさが伝わってくるのです。自由というのは、また違った束縛のひとつかもしれません。
さて、どちらへ行かう風がふく 山頭火
私たちは、いろいろなしがらみから逃れて自由になりたいと願います。しかし、本当に自由になったときは、独りになったときです。独りがどれだけ苦しいのかを知りません。何を願うかは、その人自身がでます。その人の今もでます。願いごとはその人にとって一番の関心事かもしれません。しかし、誰に願うかを知っていなければ、欲望にも祈りにも変化することだけは知っておきたいものです。
私たちは欲しいものを、あれこれと神様におねだりするのではありません。むしろ、願いとして祈っているのです。神様の御心がなりますようにとか、世界が平和になりますようにとか、御心ならば病気から解放させてくださいなどは、すべて祈りです。自分勝手な欲望にふりまわされずに、神様の御心にしたがって願うときに、本当の喜びが与えられるのです。
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