ルカ 10:42 必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。
「相田みつおカレンダー」には次のような言葉があります。「親切という名のおせっかい そっとしておく おもいやり」。私たちは親切という名のもとに、おせっかいをしていることがたくさんあります。そして、そのおせっかいに人を巻き込んでしまうこともあるのです。
イエス様の過ごされた時代は、女性が男性を迎える習慣はありませんでした。つまり普通ではなかったことです。しかし、ここでイエス様は、男と女の差別や区別などなさいませんでした。同じ人間として接しておられます。ということは、当然なこととしてマルタとマリアをも差別なさるはずはありません。同じ目でみておられます。決してどちらか一方に思いを寄せてはおられないのです。人間の目からみれば、マルタはどのようにイエス様をもてなすかと働き、マリアはイエス様の足元に座っているのです。マルタから不平不満がでてきてもしかたありません。マルタの主張は、「マリアは私だけを後に残して、自分だけ主の言葉を聞いている。マリアも私を手伝って主のもてなしの用意をすべきだ」ということです。自分だけが働くことの不当を訴えているのです。しかし、イエス様を迎え入れたのはマリアではなくマルタなのです。
最近の教会会議で「なんでだろう」と思ったことをいくつか。
・どのような会議でもだいたい同じ人が意見を言っている。
・牧師と信徒の合同会議では牧師ばかり発言している。
・最後には「もっと信徒の方々の意見を聞きましょう」と牧師が提案している。
・「あれして」「これして」と要望が多い。
・「私はこれをします」という積極的な意見はない。
・評論家のような分析意見が多い。
・第三者的な意見が圧倒的に多く、その中の一人であることに気がつかない。
・長い時間会議に費やされ結論はでないことが多い。
・「私は聞いてない」「私は初めて聞いた」との発言が多い。
・その場での意見が多く、継続性に欠ける。
・結局最後は執行部にまかせられる。
・文句は多く出るが、それからどうするがない。
・一言も発言がない人の方が多い。
・同じことが何回も繰り返し話し合われる。などなど。
だからといって会議が無意味というわけではありません。ただ、「聞く」っていうのは難しいなあ~と思っています。人間の言葉を聞くのがこんなに難しいならば、神様の御言葉を黙って聞くのはもっと難しいのでしょうね。
イエス様の前に立つ時の、思い悩みにならない奉仕。心を用いる奉仕はただ一つだけです。「主の足元に座って聞く」奉仕です。ここにマリアの奉仕があるのです。それは、マルタがどんなことをしてもマリアから取り去られない奉仕であり、イエス様の喜ばれる奉仕でもあります。イエス様は「必要なことはただ一つ」といわれました。それは、イエス様にとっても、マルタにとっても、マリアにとっても一つなのです。つまり御言葉を聞くことです。
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