マルコ 14:29 するとペトロが、「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言った。
日本人に何かをさせるには一言いえばいいそうです。それは「みんなやってますよ」と言う言葉だといいます。私たち日本人は「みんな」という言葉をよく使います。「みんなやってる」「みんなもってる」「みんな嫌いです」。しかし大抵この「みんな」は2,3人のことです。それでも全体のことにしてしまいます。一人では自信がないのか、また一人ではいたくないさみしがり屋なのか。「みんな」という中に何か問題がありそうな気がします。
イエス様は逮捕される前に、「あなたがたはみなわたしにつまずく」と弟子たちの離反を予告されています。弟子たちもみんなと同じで、自分のもとから散っていくと言われました。ペトロは「わたしはつまずきません」と言います。イエス様はそのペトロに「今夜、鶏が二度泣く前に、三度わたしのことを知らないという」と告げられました。ペトロは、わたしはみんなと違うと言いたかったのでしょう。しかし、結局みんなと同じになってしまいました。「みんな」の力に押し流されない「わたし」とは何かと思います。
山谷で炊き出しのボランテアをされている方の話を聞きました。あるとき資金が底をつき、お米を買うお金もすべて無くなってしまった時があったそうです。ボランティア参加者で緊急にあつまり、今後の対策を考えることになりました。主催者が事情を説明され、「それでどのようにしましょうか」と言われたときのことだったそうです。一人のシスターが手をあげニコッとわらって「祈りましょう。なんとか神様がされます」と祈り始めました。多くのボランティアは「いま祈ってどうする」「祈りで解決できるはずがない」「大切なことは今お米がないということ」「祈りはわかるが、それでどうなることでもない」と思ったそうです。ところが次ぎの日に、お米、献金、みそ、醤油などなど次々に届いたというのです。祈りの確かさを知らされたということでした。その話をききながら、「祈りましょう」がどうして素直に言えない、受け取れないのかなと思いました。信念を持って一人でも祈る。私たちの教会はいつも「私は祈ります」から始める教会でありたいものです。
ペトロも「みんながつまずいても、わたしは・・・」と言いました。しかし「みんな」とおなじようにつまずき、イエス様をみ捨ててしまったのです。たとえ「みんなとは違う」といっていても、人間は流されていくのです。イエス様はすべてを知って、ペテロをみつめておられました。人は神様の前にたった一人で立たねばならないときがきます。そのとき「みんな」は通用しないのです。
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