1テサロニケ 4:7 神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです。
教会事務局に働いているときに、多くの牧師さんと出会いました。その中でいつも「他に言うことはないのかな」と思える方もありました。その牧師さんは、いつも挨拶もなく「今日の交通費は?日当は?」と言われるのです。まずお金のことが最優先でした。事務局としてはきちんと準備してあるのですが、最初にお金のことを言われるたびに職員も嫌な気持ちでした。きっとその牧師さんの中に何かはあると思います。しかしその一言で職員が、牧師にたいする真摯な感じを失くしていくのは残念でした。
パウロは「汚れた生き方」を厳しく戒めます。神様がどのように招いておられるかを考えなさいと教えるのです。汚れた生き方がどのようなものであるか、それは神様と自分の関係でしかわかりません。今の生活は神様の前に「聖なる生活」となっているかを自分で吟味することです。ところがこれが難しいことです。人間はすぐ誤魔化して生きようとするからです。まず自分をごまかすことを始めます。するとすべては汚れた生き方になって行くように思います。
マラソン大会は大好きでした。もともと体格が小さかったので、野球やバレーボールなどでは力が発揮できず、短距離では瞬発力にかけていました。しかしマラソンは持久力。小さな私が勝てる数少ない競技だったのです。私も学年3位になったことを思い出しました。マラソン大会の2ヶ月前から朝1時間はやく起きて走って学校を往復しました。休み時間は校舎の裏で、ひそかに縄跳びで体力をつけていました。先生から「立野のその真面目さがいいよ」といってくださったことが嬉しくもありました。何事も真面目に、辛抱強くやること。これにまさるものはありません。聖書の通読も同じだと思います。神学校の時からいまでも続いているものがひとつあります。それは聖書を毎日5章読むということです。ほんとに辛抱強くなければできません。「今日は疲れたからやめとこう」と何回おもったことか。「明日10章読めばいいか」と誤魔化そうとしたりすることもありました。しかし、止めよう思ったことは一度もありません。私にもできるたった一つの確実なことだからです。神様と自分の関係において「真摯」であれることを教えられました。
パウロは「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」と教えています。神様が私たちに求めておられることは、「聖なる生活」に対する「真摯さ」だと思います。神様と自分の関係において常に考え、神様が求めておられることを確かめることです。汚れた生き方とは、神様を自分とは無関係に置く生き方だと思います。
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