マタイ 20:11 それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』
イソップの話です。「神が、いいものをみんな、酒がめにつめてふたをしてから、ある人にやりました。その人は、がまんできずに、なにがはいっているのか見ようとして、ふたをとりますと、中にはいっていたいいものが、神さまのところへ、飛んでいってしまいました。しかし、おおいそぎで、ふたをしたものですから、希望だけは残りました。そこで希望だけが人間のところにいて、にげていったものがいまにまたくるといってきかせるのです」。希望だけが残ったという話は、滑稽なようでいても、心にずしりというものを感じます。私たちは見なければいけない事実から目をそらしてはいけないと思います。
イエス様は「ぶどう園の労働者」のたとえを話されています。これも理解するにはよく考えねばならない話です。朝から雇われ真面目に働いた者と、最後の1時間しか働かなかった者が、主人の思いから同じ賃金を受け取るというものです。しかし、これは天の国のたとえ話ですから、神様(主人)の御心はどこにあるかを考えねばなりません。自分のことばかりしか見えてない者には「不平」しかないのです。
アントニー・デ・メロ神父がかかれた「小鳥の歌」に次のような会話があります。
動物たちが集まって、人間はいつも自分たちから何かを持っていってしまう、と不平を言い始めました。
「人間はわたしのミルクをとるわ」と牛がいいました。
「人間はわたしの卵をとるわ」とめんどりがいいました。
「やつらはベーコンをつくるためにぼくの肉をとる」と豚がいいました。
「やつらは油をとるためにぼくを捕獲する」と、鯨がいいました。
その他、その他・・・・。最後にかたつむりが話しました。
「ぼくは人間たちが他のどんなものより持ちたがっているものを持っているよ。もしもできればさっさと持っていきたいがるものさ。それは時間だよ。」
私たちは持とうと思えば世界中の時間をもてるのだとおもいますが、それができません。ところが急に時間が与えられてもそれを使いこなせないでいます。神様が与えてくださる時間は、自分のためだけに使うときそれはむなしいものになりがちです。たとえわずかな時間であっても、隣人のためにつかうときその時間は何倍もの祝福に満ちた時間となるのを知っています。
イエス様のたとえ話の中で、不平をいった労働者の意見もわかります。1時間しか働かなかった者と同じ賃金では割が合わないからです。しかし、初めの約束は何だったか。主人の思いは何であるか。を考える余裕があれば不平を言わずにすんだかもしれません。怒鳴っていた乗客の方もきちんと説明をされたら納得なれたでしょうが、怒鳴ることによってまわりに与える影響は?と考えてみてもよかったかも。
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