ヨハネ 9:41 見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。
ひまな時間をつくって陶芸をしています。いま「抹茶茶碗」を作って楽しんでいます。これがとても難しく、ちょうどよい大きさにならないのです。いくら作っても小さくなってしまいます。茶道を知らない私がつくるのですから、少しお茶の勉強をしなきゃと思います。ところで最近気がついたことですが、茶碗にとって大切なのは「重さ」ですね。素人がつくると重くなります。何度もためしてみてわかったことは、底のけずり方でした。重さは底にあるのです。ここをどのくらい削るか。底が丁寧につくられている茶碗は、確かによい茶碗だということです。見えないところが一番大切だとうことを神様に教えて頂きました。私たちはいつも、茶碗の表面・見える表情を楽しみます。しかしいくら表がよくても底がちゃんとしていないものは茶碗には向かないのでしょう。どこを見るかでしょうか。
イエス様によって、生まれつき目の不自由な人が癒されます。「見えなかったものが、見えるようになる」という奇跡を通して、神様の国が来ている事(イザヤ書の預言)が示されます。また、そこにおられるイエス様が神様の子であることも同時に示されます。しかし、ファリサイ派の人たちはそれを信じることができず、何度も本人に事情聴取をするのです。はじめから信じないのですから、奇跡と事実を受け入れないのです。
ある本の中に次のような話しを見つけました。
子どもが絵を書いていた。先生がやってきて尋ねた。「面白い絵ね。なにを描いたの?先生に教えてくれる?」「神さまだよ」「そう。でも誰も神さまを見たことがないから、本当はどんな姿をしているかわ からないわね」「もうすぐわかるよ、せんせい。ぼくの絵はもうすぐできるからね」
この話しを読んで少しばかり考えてみました。先生には見えない神さまが、子どもにはどうして見えるのだろうか。幼子の心の清らかさといってしまえばそれまでです。しかし、少なくともわが子をみていると、まあ清らかな部分もあるけれど、私たちと同じだと思ってしまいます。大切なのは、「神さまを信じているか」ではないでしょうか。疑って「見る」のと、はじめから信じて「見る」のとでは違います。
イエス様の言葉に「見えないものは見えるようになり、見える者は見えないようになる」というのがあります。自分たちは「見えている」と主張するものには見えないことがあるのです。自分のことしか考えられない人たちも同じです。口語訳には「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたの罪がある」となっています。「言い張る」という言葉に注目して今日を過ごしましょう。自分の罪を見つめた時、十字架の前で「私は正しい」と言い張ることはできないのですから。
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