フィリピ 2:4 めいめい自分のことばかりでなく、他人のことにも注意を払いなさい。
ある本で次の言葉をよみました。「人間の見方ほどあてにならないものはない。多くの人間は自分を中心にしてそこからすべての物事をみるものだ」と。つまり、その視点が正しいかどうかは問題にしていないというのです。本質は違っていても、自分の視点こそが正しいものとしていると。具体的なたとえも書いてありました。かわいいぬいぐるみを持った一人の女の子がいます。彼女はそれを誰にも触らせてくれませんし、まして貸してもくれません。多くの人は「なんてわがままな女の子だろうか」と思います。しかし、その子の母が昨晩天に召されて、そのぬいぐるみはお母さんが大切にしていたものだということがわかったとき、人はその女の子を「わがまま」とは思わない。すべては、自分の視点でしかみないことに間違いがおこる。
パウロはまず2章のはじめに「へりくだる心」を持つことを薦めています。また、キリストによる励まし、交わり、あわれみの心が与えられていると告げています。そのことはキリストの十字架の出来事として確認できるというのです。キリストの十字架を思いながら、自分たちの生き方を点検するように勧めています。すべてはキリストがどうされたかを考えることです。
大江教会の牧師館には広い庭がありました。冬はとても素敵な空間でしたが、夏は草取りで大変でした。この草取りですが、始まるまえはちょっとイヤな気分です。なぜなら、「どうして自分が」とか、「暑いのに」とか、「雑草も生きているのだから殺生してはいけない」とか、いろいろ理由をつけてやめたくなります。いざやりだすとこれくらい静かな時間はないことに気がつき、たった一人の黙想の時間を感謝できます。ところでいつもなら、「今年あと何回、草取りをしなければならないのか」と考えますが、なぜかふと「あと何回、ここの草取りができるだろうか」と思いました。もしかすると、これが最後かもしれない。神様が今日にも天国に導かれたとしたらそうなります。そう考えたとき、この草取りがいとおしくなったのです。今から終末を待つ視点と、終末から今をみる視点は違います。終末からみる視点によって、今はいやだと思えることも、いとおしくなることがあります。
パウロは「他人のことにも注意を払いなさい」と言います。そして見本はイエス・キリストだと言っています。いつもイエス様だったらどうされるか考えてみようということです。自分の視点の転換がおこるとき、より本質に近づいていきます。イエス様だったら、女の子のすべてを知ってぬいぐるみと共に抱きしめてくださると思います。
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