マタイ 25:37 「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。」
「自分のやっていることが分からない」ということがあります。また、「自分のやったことが分からない」ということもあります。どちらもだいたい悪いことのときに使う言葉かもしれません。しかし、悪いことだけではないようです。知らずに人を助けているということもあります。
本日の福音書はこの世の終末にある裁きの座でのできごとです。私たちは神様の前に立つとき、何をしてきたかがとわれています。しかし、ここに「自分が何をしたか分からない」ということがでてきます。神様はそれをよしとされています。この場合の「何をしたか分からない」というのは、ある意味『あたりまえ』のことをしたまで、ということかもしれません。なにか大きなことや、人に目立つことをしてきたのではなく、苦しんでいる人がいたら助ける。悩んでいる人がいれば寄り添う。そのことを神様はみておられるのです。
私たちは「人に仕える」というとき、自ら構えてしまうことが多いものです。何かを「しなければ」という思いに縛られてしまいます。しかも、それができないことに落ち込みます。しかし、キリストにあって『あたりまえ』の状態であれば構えずにいられるのです。「ねばならない」という状態は自分自身を縛っていることです。そこから解放されてあるがままに生きていくこと。そのあるがままの中に神様のみ心が示されているのです。
キリストにあって『あたりまえ』とは何でしょうか。それを考えるとまた縛られてしまいますが、祈りつつ生活することです。み言葉にそって生きることです。キリストにあって「あたりまえ」は、「あたりまえ」に変えてくださることだと思います。
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