マタイ 11:29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。
ある国に行ったとき、児童買春の問題とは何かという会議がありました。貧しい村から都会にきて、小学生の年齢から売春で働かされる。稼いだお金はすべて村の家族におくられ、一人の少女が10人の家族を養っている現実を教えていただきました。どうすればこの問題を解決できるか。大人たちの問題だと思いましたが、一番の問題は「教育」であると指摘されました。はじめはその意味がわかりませんでしたが、売春とはいかなるものか、そのことによって引き起こされる深刻な病気や、命の問題。それを教える「教育」ができればということでした。
イエス様は「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言われました。一人では負いきれない重荷も、イエス様がおなじ軛を負って共に歩んでくださるというのです。また、「わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と言われました。安らぎを得るためにイエス様に「学びなさい」と言われています。
脳科学者の本に次のようなことがかいてありました。「多くの親は『少しくらい勉強ができなくても、他人を思いやれる優しい子になりなさい』と言う。でも実は、思いやりのある人間を育てるためには、学力を身につけさせなければならない」と。ただし学力イコール成績ではありません。論理的思考を身につけ、優しさや思いやりの心を育てるためには学力が必要というのです。相手に優しくする、相手の気持ちを思いやるためには、広い意味での教養が必要なのです。人の心を思いやるには学びが必要です。解剖学者の養老孟司さんは「教養とは他人の心がわかることである」と言っています。学び続けて論理的思考を身につけることが、優しさや思いやりを生む教養となっていくのです。
イエス様は「わたしに学びなさい」と言われました。イエス様に学ぶことによって、人はお互いに愛し合い、赦し合い、人と人の関係のなかで神様の救いが与えられていきます。イエス様に学ぶというのは、聖書を読み祈ることです。つねに聖書の中から神様の御言葉を学ぶ時、人は他人にかかわる教養を身につけていくのだと思います。
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