「趣味は何ですか?」と聞かれたら、「陶芸」と答えます。はじめは茶碗を買うのが趣味でした。椿窯に毎週通ったものです。しかし、自分で作りたいという思いがでてきました。それではやってみようと通信講座で陶芸を学び窯を開いたのです。やってみると簡単なようで難しく、やればやる程、思い通りにはならないものです。
陶芸は土と炎がおりなす無作為の業だと思います。形は人の手が作りますが、あとはすべて窯と炎にお任せしなければなりません。同じものは2つとできません。すべて1品物になります。それが楽しくてしかたありません。窯を開けてみるまで中は謎、同じものは作れない。それが陶芸の深さなのでしょう。
ところが最近プロの陶芸家がラジオで話していました。「陶芸とは無作為の作為なのです」と。作為のあるものを無作為にみせる。あたかも自然がつくりだす芸術に見せると言うのです。芸術と言われる作品はすべて計算づくで作陶されていると。歴史がある有名な窯元には陶芸レシピが山ほどある。形の様子、細かな細工、自然と流れるように見せる釉薬の垂れ方まで書いてあると言うのです。窯元の技術で作為をもって無作為に見せるようにつくられていると。それが人々の心を打つのだと。無作為にみせる作為のなせる業。それはすごいことだと思います。自然の創造にみせるというのですから。
この話しを聞きながら、人間を造られた神様の創造を思い出しました。神様がなさることはみなこの「無作為の作為」ではないだろうかと。陶芸素人の私には決してわからない奥義なのだと思います。神様は私たちをいつも守ってくださる。自由に生かしておられるように見せて、実はすべての配慮をしておられる。しかしそれを押し付けはなさらない。右の手のしたことを左手に教えない。こんなこと考えながら土をこねています。