ヨハネ 16:2 あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時がくる。
3人の老婦人の会話です。A「わたしは最近、何をするにも『よっこいしょ』と声をかけなければ体が動かないので、どうにもやれん」B「そりゃあまだいいね。わたしは『どっこいしょ』といわねばならん」C「2人ともまだまだいいんね。わたしは『よっこら、どっこいしょ』といわねばならん」と。なんとも、微笑ましい限りです。ゆっくりと時間が流れているような感じがして。なんだか天国にいるような会話だと思いました。誰が言ったかわかりませんが、次ぎのような言葉があります。「子共 叱るな 来た道だもの 年寄 笑うな 行く道だもの」なかなかいい言葉だなあと思います。私たちは自分がその時にどんな思いをしていたかよく忘れます。また逆にその時になってみなければわからないことがたくさんあります。あくまでも自分に謙虚であることが大切だと思います。
イエス様は十字架の出来事の前に、弟子たちに「告別説教」をされました。その中には弟子たちの迫害の予告も含まれています。それはイエス様を世が憎んだように、弟子たちも同じように憎まれるというものです。しかし、この迫害の予告は弟子たちを躓かせないためであり、神様のみ心が何であるかを知らせるためです。イエス様の言葉を謙虚にきくならば、その時には聖霊をいう助け手が与えられると言われています。
私たちは「神様のためにやっている」といいながら、人をつまずかせてはいないでしょうか。そこには、自分こそは神様に奉仕しているという傲慢な考えがあるからです。もし「あなただけが神様に奉仕しているのでしょうか。」とイエス様に問われたとしたら。「そうです」と答えられる人はいるでしょうか。何にもしていないように見えても、実はしっかり神様に奉仕をしています。自然に生えている草木さえも、神様の創造を表わすことによって奉仕をしているのです。
私たちは思い上がってはいけません。常に神様の前に謙虚でありたいものです。すべてのことは神様の業の中にあることです。それをされるのは神様です。私たちは神様の働き手です。自分が神様に奉仕しているのではなく、神様が働き手として奉仕させてくださるのです。「謙虚」ということを学びたいものです。
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