ルカ 20:13 どうしようか。わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう。
自動車運転の経験で一番に思い出すのは、百キロで飛ばしている高速道路で、ブレーキがロックされて効かなくなったことです。電気系統のベルトが切れてそれがどこかにあたったのか、とにかくブレーキを践んでも効かないのです。半分あせりながら、半分落ちついていました。「このまま死んでは神様に申し訳ない」と祈りながら真剣に考えていると、やけに冷静に対処できました。こんなわたしでもまだまだ神様に用いられたいと願ったのです。ブレーキが効かないことがこんなにも恐ろしいとは、初めての経験でした。私たちの人生においても、キリスト信仰というある種のブレーキが必要だと実感しています。真剣に神様の中にある自分の命を問うことも必要だと思います。
イエス様の「ぶどう園と農夫のたとえ」の1節です。ある人がぶどう園を作り、農夫たちに貸して旅出ます。収穫のときに僕たちを送って実りを得ようとしますが、農夫たちはことごとく僕たちを袋叩きにして追い返してしまいます。最後に「わたしの愛する息子を送ってみよう。この子ならたぶん敬ってくれるだろう」と息子を送ると、農夫たちは息子を殺してぶどう園を自分たちのものとしたという話です。この農夫たちが自分の物としたというところに、神様からいただいた賜物をどのようにしたかを考えさせられます。自分のものにするという自分勝手さを思い知らされ、罪を問われているようです。
会社の組織論を書いた本があります。その中で働く者に求められる、とくに管理職に求められるものは能力等ではなく「真摯さ」と書いてありました。マネジメント能力、リダーシップ、管理術などは後から身につけることができる。しかし「真摯さ」だけは身につけることはできないというのです。自己中心的で、組織やともに働く仲間のことをまったく考えない者が組織を破壊すると書いてありました。では「真摯さ」とはどうやってはかるか。その本には「その者の下で自分の子どもを働かせたいと思うか」でわかると書いてありました。
イエス様のこのたとえも「真摯さ」を問題とされたように思えます。与えられた賜物にたいして、自分はどのように働いているか。それを受け取っているか。自分自身を省みる受難節に、神様の働きに対して「真摯であるか」「子どもをあずけていただけるような信仰者であるか」を問うています。
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