マタイ 12:33 木の良し悪しは、その結ぶ実で分かる。
ある地区の聖書日課を作成したことがありました。地区の信徒さんの書かれたものを編集していると、大変勉強になります。与えられた聖書箇所を黙想し、まとめあげ、しかもそれを読む人へ伝わるように編集していく。これだけでも大変な作業をしておられるのです。さて、編集していると、たくさんのことに気がつきます。読んでみてスッ~と心に入ってくる文章。何度読んでも引っかかりのある文章。書き手と読み手に決定的な溝がある文章(これは、書き手の中ではつながっているのだが、読み手には唐突なもの)。聖書の解説のみに終始している文章。日課には関係なく証しになっている文章。これらの文章と付き合いながら、自分の語ってきたこと、書いてきたものはどうだったかと考えています。しかし、その中でこれはという文章に出会うこともあります。その文章はどんなものかと言えば、読んでわかる文章ではなく、聞いてわかる文章です。「わかる」ということに視点をおきたいなと思います。
イエス様は、人の行為や言動を問題とされました。その善し悪しは「結ぶ実」でわかると言われたのです。すべてのことは、その人の外に現れてくる。その人が結ぶ実でわかるというのです。どんなに後からとりつくろっても、人間の内面にあることは、必ず外に現れてくる。そのことをみれば、善し悪しは分かるのだと教えられました。
「『頭がいい人』と言われる文章の書き方」と言う本を読んでいます。その中に、文章を書く鉄則としていくつかあげられています。その一つに「自分のわからないことは書かない」というものがあります。教会の月報や週報で、いくら読んでも意味や内容がつかめない文章があります。また、礼拝説教などもよくわかないことがあります。それは読む側、聞く側の理解力が足りないということもあります。しかし、多くはそうでないと思います。つまり、書いている、語っている本人が、理解しないままに書いたり話したりしていることが原因の多くを占めるのです。そのような文章の特徴は、抽象的な文章が多い、内容がぼけているというものです。「わからないことをわかったように書く」のは所詮無理なことです。ですから、大切なことは、「わかっていることを丁寧に書く」ことしかありません。内面のことは必ず外に現れているのです。
イエス様は「その結ぶ実で分かる」といわれました。どんな実を結ぶかは、その内面の信仰によるのです。結んだ信仰の実によって、その人自身もわかることになります。木と実の関係は、心と言葉の関係に置き換えられています。どのような実を結んでいるかで、その人の内面が見えてきます。
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